2023年11月4日土曜日

11月2日秦野観光ボランティアと歩く ~ 大日堂仏像拝観ハイキング

 2023年11月4日土曜日14:10 快晴

11月2日は秦野観光ボランティア協会主催のウォーキングに参加。大日堂拝観と金剛寺拝観がメインのハイキング。

大日堂は、奈良県の東大寺大仏造営に尽力した行基(ぎょうき)によって、742年(天平14年)に、開かれたと伝えられています。

本堂には、平安時代後期の作でヒノキの一本造り、像高175cmの座像、「大日如来像」があり、県の重要文化財に指定されています。
この像の両脇には、四体の如来像もあるため、併せて「五智如来(ごちにょらい)」という別称でも呼ばれています。

金剛寺は、もともと小寺でしたが、鎌倉時代に武常晴(つねはる)が3代将軍源実朝の御首(みしるし)を当寺に持参して埋葬したことに始まるといわれています。 退耕行勇(たいこうぎょうゆう)を招いて木造の五輪等を建て実朝の供養をしました。その後、実朝の法号金剛寺殿にちなみ、金剛寺と改めました。
1250年(建長2年)に、波多野忠綱(ただつな)が実朝の33回忌のため再興しました。本堂には、源実朝像が安置されています。
金剛寺には秦野市東田原出身の画家大津雲山の墓もあります。

8:04 開成駅出発 快晴、今日は暑くなりそうだ。青空に小さく月が見える。


秦野駅北口のバス停、蓑毛行きは平日9:30しかない。9:00は廃止だとか。

予定コース

9:51 大日堂一般公開
中央の金剛界大日如来は県指定重要文化財であり、他の4体は
市指定文化財となっている。制作年代は平安後期と推定とのこと。 
一木造、彫眼、材質はヒノキやケヤキ。(⑦)
 
このような山深いところに、これだけ見事な像が5体揃って残って
いることに驚く。信心深い人たちが護ってきたに違いない。像高
2メートル近くある大日如来は一際輝き、迫力もある。
五智如来の五智とはどのような智慧なのかについて、参加者の
皆さんへ説明した。
 
五智如来とは別に大きな木造聖観音菩薩立像(⑧)を目にする。
元々観音堂に祀られていた像が、今は客仏として大日堂に安置
されている。傷みが大きく、少し痛々しい感じがした。
⑤大日堂            ⑥大日堂の仏像解説
 
⑦五智如来           ⑧観音菩薩
 


真ん中に本尊の大日如来(県の重文)、その左に釈迦如来(北)、阿弥陀如来(西)、右側に宝生如来(南)、阿閦(あしゅく)如来(東)(以上の4体は市の重文)の五体を五智如来坐像で、5体満足に残っているのは大変貴重だそうだ。



閻魔堂
大日堂の次に、扉を開けて頂いたのは、木造十王像を安置する
「茶湯殿(ちゃとうでん)」(⑩)。百一日目に「茶湯供養」と言う法要
を行う場所になるそうだ。そこから「茶湯殿」と呼ばれたのだろう。
通常は閻魔堂と言われるお堂のこと。 
閻魔堂は地蔵堂とも呼ばれ、お堂の中央には地蔵菩薩(⑫)
が鎮座している。閻魔王の本地仏が地蔵菩薩であり、一緒に
祀られている。3つの呼称があるとは紛らわしい。
 
地蔵菩薩像は正徳五年(1715)、閻魔王(⑬)始め十王像には
享保六年(1721)の墨書銘と仏師名も残っている。すべてが
残って、制作年も分かる像は史料的価値が極めて高い。
五智如来像、十王像と、勢揃いしていること自体素晴らしい。
⑫地蔵菩薩
 
⑬閻魔王              ⑭奪衣婆
 



閻魔堂(地蔵堂)のそばに「木喰光西上人入寂(もくじきしょうにん
にゅうじゃく)の地」と書かれた案内板が立っている。(⑮)
 
宝蓮寺地蔵堂の庵主であった木喰光西上人が江戸時代中期、
飢饉などで日本全体が危機に瀕したときに農民を救済したり、
大日堂、仏像の修理などの功績を残し、この地で亡くなったと
伝えている。立派なお坊さんだったようだ。
 
木喰仏、円空仏と言うように、木喰は個人名と思い込んでいた。
案内板のように木喰上人とは穀物を食べず草根・木皮・果実等
を食物にして修行する僧のことを言う。 
⑮「木喰光西上人入寂の地」案内板
 




不動堂は開扉とならないため、扉の隙間から覗くように拝観。(⑨)
お寺の縁起によると不動堂は7世紀の頃、朝鮮半島からの渡来人
である秦氏が守り本尊の不動明王を祀ったのが始まりとされる。
地名の秦野市と言い、秦氏との繋がりがいかに大きいかを感じる。
⑨不動堂の不動明王



道標




10:56 御師の里
大山は古くから信仰を集めた山で、江戸時代、山頂の石尊社(せきそんしゃ)<現:阿夫利神社>と中腹の大山寺(だいさんじ)が信仰の中心となっていた。御師とは、大山参詣の人々を大山へ案内する先導師で、大山信仰を布教し、家は宿も兼ねていた。蓑毛の御師は、南関東一帯に檀家(だんか)をもっていたが、特に伊豆、駿河方面からの参詣者が多かった。一方、伊勢原の大山御師は、江戸方面からの参詣(さんけい)者を中心に先導していた。蓑毛の御師集落は、1986年<昭和61>度「かながわのまちなみ100選」に選ばれたが、その風情を残す家は少なくなった。灯籠(とうろう)は1860年<万延元>のもので往時がしのばれる。江戸時代の作家・十返舎一九は、三島から箱根を経て大山(もうで)をする二人旅を『諸国道中金草鞋(かねのわらじ)』という作品に表している。その道順は、曽我から猪の江<中井町>を経て、十日市場(現在の曽屋)に出、蓑毛から大山に向かうコースとなっている。

11:02 碑
沼津からの大山詣でが盛んで、ここ御師の里で宿をとり翌日大山に参拝した。そのため寄付も多かったとか。


沼津の人の寄付者の名前が彫られている

11:10 ここでランチ




住宅の中に自由に入れる

11:59 ランチが再出発  小蓑毛の大山鳥居。年月が経っており崩れないか心配だそうだ。

12:01 鳥居のすぐ先にある道祖伸

12:08 二十三夜供養塔
二十三夜塔とは、庚申講(こうしんこう)と同じく民間信仰のひとつとして、人々が集まって月を信仰の対象として「講中」といわれる仲間が集まり、飲食をし、お経などを唱えて月を拝み、悪霊を追い払うという月待行事(月待行事)を行い、その記念や供養のあかしとして建てられたもので、月待塔(つきまちとう)ともいいます。
 月待行事は、江戸時代から昭和の初期にかけて、日本各地で盛んに行われましたが現在はほとんど行われなくなりました。「二十三夜」のほかに、十五夜、十六夜、十九夜、二十二夜などの特定の月齢の夜にも行われました。全国的には二十二夜塔や十五夜塔も多くありますが、二十三夜は月齢でいう「下弦の月」※で、月が出る時間がほぼ午前0時で、その時刻と幻想的な月の形が信仰と重なり、「二十三夜」を一般的なものとしたようです。
 また、崇拝の対象として十三夜は虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)、十五夜は大日如来(だいにちにょらい)、十七夜から二十二夜までは、観音様を本尊とし、二十三夜は勢至菩薩(せいしぼさつ)を本尊として祀っています。
 勢至菩薩は、智慧(ちえ)の光をもっており、あらゆるものを照らし、すべての苦しみを離れ、衆生に限りない力を得させる菩薩といわれています。月は勢至菩薩の化身であると信じられていたことから、二十三夜講が最も一般的で全国に広まったとも言われています。中には「三日月さま」の塔も分布し、集まる月齢に関しては地域的な片寄りもみられます。

12:11 才戸の道標
大山道のにぎわいをしのぶ道標は、秦野市内で多く確認されている。特に古いのは、蓑毛の才戸入口にある1735年<享保20>のものである。上に不動明王が載っている。正面の文字は、風化して読み取りにくいが、かつては「右ハふし□、左ハおた原」と刻んであった。右へ進む道が昔からの大山道で、平成5年度「かながわの古道50選」に選ばれ、”関東ふれあいの道”に指定されている。

12:15 庚申塚
左から 庚申塔 男女双体道祖神 浅間大神塔 五角柱地神塔 地神塔 近くに市内最古の大山道の道標(不動明王像を戴く)もある。
男女双体道祖神 男女双体では市内最古といわれている。元文6(1741)年 

男女双体道祖神 男女双体では市内最古といわれている。元文6(1741)年 

五角柱地神塔

地神塔(じじんとう)は、地神信仰に基づいて地神あるいは社日講によって造立された石塔であり、社日塔(しゃにちとう)・地神碑(じしんひ)ともいう。東日本では神奈川県に、西日本では岡山県香川県に多く分布する。その他の県と北海道にも存在するが、地神講・社日講が広く分布しているのに対して地神塔の分布は限定的である。「地神」や「堅牢地神」などと刻まれた文字塔と、地神像または地天像の刻まれた刻像塔がある。元禄年間に造立が始まり、文化文政期(1804年-1830年)に広まって明治時代までは多く造立されたが、大正以降は少なくなった[2]

五角柱や六角柱に「埴安媛命 倉稲魂命 大己貴命 天照大神 少彦名命」の五神名を刻む塔があり[2]、五神名地神塔 [3]、五角柱地神碑[4]、五角柱=五神号型[5]などと呼ばれる。陰陽道系統の「土公神」や、神奈川県に見られる「天社神」や「后土神」と刻まれた塔も地神塔に含められる[2]


12:35 伝波多野城址 発掘の結果何も出なかったので、ここではないのではと異論が出ているそうだ。

12:43 馬頭観音群 95体集められている。

13:01 バナナと言っていたが?

13:04 富士山が見える絶好の場所と言っていたが、何となく見える。

13:11 田原ふるさと公園にある源実朝の首塚


公園ないにあるこに遺跡あたりが波多野城址ではないかと説もある。



13:23 最後の目的地金剛寺 臨済宗建長寺
金剛寺は、もともと小寺でしたが、鎌倉時代に武常晴(つねはる)が3代将軍源実朝の御首(みしるし)を当寺に持参して埋葬したことに始まるといわれています。 退耕行勇(たいこうぎょうゆう)を招いて木造の五輪等を建て実朝の供養をしました。その後、実朝の法号金剛寺殿にちなみ、金剛寺と改めました。
1250年(建長2年)に、波多野忠綱(ただつな)が実朝の33回忌のため再興しました。本堂には、源実朝像が安置されています。
金剛寺には秦野市東田原出身の画家大津雲山の墓もあります。









阿弥陀堂が特別公開中

「実朝念持仏」との由緒が伝承される木造阿弥陀三尊立像で、両脇侍の観音・勢至菩薩立像は、鎌倉幕府三代将軍源実朝の没後間もない頃に御家人波多野氏らを中心に供養のために造立されたものと推定されます。
 中尊の阿弥陀如来立像は、鎌倉時代中期の阿弥陀如来立像の形式に倣った室町時代後期から江戸時代初頭の作とみられ、ある時点で補われたものと推定されますが、歴史的・美術的意義に鑑みて、阿弥陀三尊立像として文化財指定にふさわしいとされることから指定されました。




14:00のバスに乗り秦野駅北口へ向かい解散。一日中快晴で大日堂や金剛寺の特別公開を鑑賞でき貴重な一日であった。

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