2023年11月18日土曜日

第12回金太郎ウィーク 長泉院の紅葉と岩原めぐり

 2023年11月18日土曜日16:00 晴れ

今回は、南足柄市文化スポーツ課の事業で金太郎ウォーク実行委員会主催のウォークに

参加した。テーマは長泉院の紅葉と岩原めぐり。

7:34 集合場所の大雄山線岩原駅のそばの岩原公民館へ向かう途中の今日の富士山


7:36 途中にあった曽比稲荷神社。社伝によると八幡太郎源義家にかかわる神社



8:04 岩原駅手前の狩川にかかる塚原橋と富士山

8:06 塚原駅(無人駅)

8:08 大雄山線の電車(小田原行)



ウォークの説明




9:05 4班に分けて出発。最初は岩原薬師堂
寺院の岩原薬師堂は、岩原城主大森信濃守氏頼(寄栖庵)の招請により、大寧和尚(文明2年1470年寂)が開山した清泉院(現長泉院)の旧地と伝えられ、本尊薬師如来像は大森氏の守本尊とされます。清泉院(現長泉院)が塚原へ移転した後、本尊を奉安する薬師堂として残されたものと思われます。
本尊は聖徳太子の作と言われ、虎の年の昨年御開帳があった。






9:19 岩原八幡神社は、源頼義が陸奥守として奥州へ赴任の途次に建立したと伝えられます。その後源頼朝が富士の巻狩に際し社殿の改修を命じて巻狩の無事を祈願、小田原城主大森氏、更に大森氏を破った小田原北条氏も当社を崇敬したといいます。江戸期には岩原村・塚原村の鎮守として祀られ、明治維新後の社格制定に際し村社に列格していました。


神社本殿の裏は6世紀後半の古墳。直径43.5m、高さ4mの円墳。足柄平野で最大の古墳。

古墳を削って本殿が建てられている。昔は古墳とは思わなかったのではないかとの説明

ここに空堀がある。戦国時代の名残。通常は水はないが戦となりと20センチ程度水を流し泥水にして進行を妨害したと。

9:40 岩原城址。住宅の間を入っていく。
岩原城は太田道灌と並ぶ扇谷上杉氏の重臣で、西相の名将と呼ばれた大森氏頼の隠居城として知られています。氏頼は子の実頼に家督と小田原城主の座を譲ると、自らは奇栖庵明昇(きせいあんみょうしょう)と名乗ってこの城に入りました。韮山城主・伊勢宗瑞(北条早雲)も氏頼の存命中は相模に侵攻できなかったとされ、1494年(明応3年)に氏頼が死去すると、翌年には小田原城を奪取しています。このときの小田原城主は実頼の弟である藤頼で、一度はこの城に逃げ込みますが追撃されて自害し、大森氏は滅亡しました。現在城址の大半は宅地化、農地化されていますが、西物見郭跡周辺にはわずかに堀跡が残っています。






10:23 曹洞宗長円寺
長円寺は、順的(永正8年1511年寂)を開基として、僧侶海關が天明3年(1783)創建したといいます。


本堂向拝(ごはい=参拝するところ)の上部に禅問答の一場面を彫刻した装飾(妻飾という)があり珍しいものらしい。


大森彦七という勇猛な武将が大蛇を退治した際の脇差で立ち向かい大蛇は退散。その太刀を立てたという岩が残っている。

11:01 長泉院参道の入り口に到着

洞宗寺院の長泉院は、玉峯山と号します。長泉院は、岩原城主大森信濃守氏頼(寄栖庵)の招請により、大寧和尚(文明2年1470年寂)が岩原薬師堂の地に清泉院と号して開山、大森信濃守氏頼の子息大森実頼(法名清泉院可安道印)が開基となり、当地へ移転させて長泉院と改号したといいます。大森氏廃絶後には、松田尾張守憲秀・小田原北條氏より寺領安堵を受け、徳川家康の関東入国後には代々小田原城主より寺領安堵状を受領していました。

「諸悪莫作(まくさ) 衆善奉行」とある。もろもろの悪しきことをなさず、もろもろの良きことを行えば(自から心が清くなる。それが仏の心である。)と説いた石碑。1763年建立。高さ415m。


まだまだ先は長い坂が続く

11:15 途中にある門


11:17 龍門橋の手前にある地蔵

龍門橋
太刀洗川にかけられた屋根付きの橋。屋根に龍の飾りがある。新住職が初めて寺に入る儀式(普山式)で使用される。

太刀洗川の源流 箱根と同じ石とか。

最後の坂







紅葉はまだ早いのかまたは夏の暑さでやられたか?





本殿

世界一高くなるセンペルスコイア(アメリカのオレゴン州の太平洋岸の高地に自生、100m以上に育つ)




11:45 長泉院の帰りに撮った龍門橋の上にある飾りの龍

12:34 ランチをした塚原大神宮からみた大山

大神宮内のイチョウ

12:37 杉の花

13:00 コース上にある予定外の寺金剛寺応永元年(1394)開創。
正式名称は「上関山極楽寺」。鎌倉円覚寺を本山とする臨済宗円覚寺派の禅寺です。1344年開創。開山(寺を開創した僧侶)は仏満禅師大喜法祈大和尚、開基(寺の創建に尽力した資主)はその弟、今川範国です。

はじめ「定慧山極楽寺」という法相宗の寺があったのを仏満禅師が禅寺と改め、百丈禅師(中国唐代の禅僧)の木像を安置し「百丈山極楽寺」と改名しました。その後、足利尊氏による寺院の建立や寄進があり、開山の弟子、極楽寺2世である季高禅師が「上関山極楽寺」と改めました。尊氏により寺格が高められ、関所より上の位を表し「上関山」としたという逸話がありますが書物等の記録には残っていません。

開山、仏満禅師の顔が描かれた書物はありません。極楽寺には開山の木像が現存しています。「平生一笑春風面」と称されたように、開山の木像は満面に笑みをたたえ、温情溢れる顔つきをしています。

その反面、開山は「平生の気宇万夫の雄」として、勇猛な心もちを讃えられました。そこには、足利氏の支流今川基氏の5人兄弟の四男として生まれた、武門今川家の血筋が感じられます。仏満禅師はその後、出家して太平和尚の弟子になり、禅の修行を積み、師の法を継ぎました。その名声は徐々に天下に聞こえ、有名な鎌倉五山の浄智寺(34世)、円覚寺(30世)、建長寺(40世)で住職を務め、また多くの寺を開創しました。極楽寺を含めその数は14寺です。1368年、師匠である太平和尚の祥月命日である9月24日、続燈庵後の絶壁に造っておいた岩窟にこもり、坐禅をして、弟子や後世のために詩を残し、入定(高僧が亡くなること)しました。入定から650年となる2018年秋、円覚寺管長、横田南嶺老大師のもと、開山仏満禅師六百五十年遠忌が厳修されました。

大雄山最乗寺は、1394年、了庵禅師により開山された曹洞宗の禅寺です。最乗寺の建立中、了庵禅師は極楽寺を宿としていました。その縁から、入寺式(住職として寺に入る際の儀式)や開山忌(開山の祥月命日に行う儀式)は、宗派を超え、互いに招請し合う関係を築いています。

了庵禅師は極楽寺に安置されていた百丈禅師の木像が亡き師匠にそっくりであったことに心を打たれ、最乗寺開山後も、朝になると遠い山道を極楽寺まで下り、木像を拝み、また最乗寺に戻っていきました。これを見ていた当時の極楽寺2世季高禅師は「それほどまでに厚く信心されるのなら差し上げましょう」と、この木像を最乗寺に寄進しました。










本堂の御本像



13:14 最後の目的地金剛寺
応永元年(1394)開創。
本尊は延命地蔵菩薩。開山(初代住職)は季高法雲(きこうほううん)禅師で当初は黄龍山(こうりゅうざん)金剛寺といいました。 宗旨は鎌倉円覚寺に本山を構える臨済宗円覚寺派に属す禅寺です。文安2年(1445)北条早雲の前の小田原城主、大森氏頼(うじより)が伽藍を整備拡充して寺格を高めて、山号も祥龍山と改称しました。この時より大森氏の家紋である二つ巴が寺紋に定められました。
嘉永6年(1853)の小田原地方大地震で本堂や庫裡は全部潰れてしまいました。
安政元年(1854)庫裡が再建されて,本堂は慶応3年3月(1867)に鎌倉円覚寺の塔頭(たっちゅう)である続灯庵(ぞくとうあん)の本堂に型取って再建されました。塔頭とは本山境内にある寺院のことで、もともとは高僧のお墓を守るための坊、または高僧が暮らしていた庵のことをいいます。
続灯庵は金剛寺の開山、季高法雲の師である円覚寺30世大喜法忻(だいきほうきん)のために建てられたお寺で、塔所(お墓がある場所)でもあります。



享保19年(1734)、当寺10世大心和尚が人々を災いから守り,世間を照らしてくれますようにとお堂を建て観音様の石像を安置しました。その際、像の霊験を高めるため西国33箇所、秩父34箇所、坂東33箇所の合わせて100箇所ある観音霊場を巡礼し、最後に山形県湯殿山霊場の土を持って帰り像の下に埋めたと記録にあります。


社務所の玄関にあった置物

秋葉三尺坊という権現をお祀りしているお堂です。天狗のような姿で白狐に乗って飛び回り火防の大魔神力をもって人々を火難から救うと言われています。 享保20年(1735)に当寺10世の大心和尚が静岡の秋葉山から勧請(魂分け)したものです。

13:40 大雄山駅に向かう途中の矢倉岳とバックには富士山


14:04 ここでお土産に下駄饅頭を購入。

紅葉はいまいち出あったが天気も良く楽しいウォーキングであった



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