2024年2月8日木曜日

2月7日秦野市観光ボランティアと歩こう! 矢倉沢往還を歩く①

 2024年2月8日木曜日14:42 晴れ

矢倉沢往還(やぐらざわおうかん)は、江戸時代に整備された街道で、江戸城の赤坂門(赤坂見附)から相模国足柄峠を経て駿河国沼津宿を結び、東海道脇往還としても機能していた。江戸から大山への参詣道として使われ「大山街道」、「大山道」、厚木街道などとも呼ばれた。現在は、ほぼこの旧往還に沿って青山通り国道246号が通っている。

律令時代には駿河国と相模国を結ぶ東海道の本道にあたり、「足柄道」(あしがらどう)または「足柄路」(あしがらじ)と呼ばれていた。万葉集に収録された防人の歌にも登場することから、8世紀頃には東国畿内を結ぶ主要道として歩かれていた様子がうかがえる。富士山延暦噴火(800-802年)で一時通行が困難になり、復旧までは代替として箱根路を整備して用いた。

その後は鎌倉時代に湯坂道(鎌倉古道のひとつ。江戸時代以降は東海道の本道になる。箱根路とも)が開かれるまで官道として機能していた。建武2年12月(1336年1月)にはこの街道筋で箱根・竹ノ下の戦いが行われ、敗走した新田義貞を追って足利尊氏が鎌倉から京都へ攻め上がる経路となった。

江戸時代には、東海道の脇往還として機能していった矢倉沢往還には箱根の関所と同等位の矢倉沢関所があった。天正18年(1590年)に関所が設置され、駿河国への通行人を検閲した。箱根関所の北には矢倉沢往還が通る矢倉沢の他、その北側の川村・谷ヶ村[2]、及び南側の仙石原[3]に関所が置かれ、ここでは女人の通行は小田原領内婦女子のみが領主の家老証文によって通過が許可され、武具や夜間を通過禁止とし通行を取り締まった[4]

大山道の道標。世田谷区三軒茶屋

江戸時代中期以降になると大山が盛んになり、またの名を雨降山(あふりやま)とも呼ばれた大山への参詣者が急増したと言われる。そのとき、宿駅などが整備されていた矢倉沢往還が江戸からの参詣道として盛んに利用されたことから、「大山街道」(おおやまかいどう)、「大山道(青山通り大山道)」(おおやまみち)とも呼ばれるようになり、現在も神奈川県内の旧道などにはその名が定着している。 (但し、大山街道(大山道)と呼ばれる道は、現在の国道129号国道16号東京都道59号八王子武蔵村山線を介し、埼玉県熊谷市方面にまで伸びている道をはじめ、他の大山街道の事も指す為注意が必要である。)

「矢倉沢」(やぐらざわ)の地名は現在の神奈川県南足柄市足柄峠付近に残っており、この辺りではかつての街道筋を「足柄古道」(あしがらこどう)として整備されているが、他の神奈川県内の区間は大正時代になると県道1号線に指定され、後に国道246号となり、幹線道路として拡幅やバイパス設置等の整備が進んだことから、一部の地域を除き往時の面影を辿るのは困難になっている。また、1969年までには東名高速道路首都高速3号渋谷線がこの街道に概ね沿って開通し[5]、日本の東西交通で重要な役割を持つルートとして利用され続けている。

今日のスケジュール表

一昨日からの雨で弘法山から鶴巻へ抜ける道が酷い泥濘の道となっていると思われることから、止むを得ず国道246号線を通ることになった。


8:42 秦野駅を8:35に出発。駅の北側に流れる水無川沿いに上流に歩く。
矢倉沢往還は秦野橋(俗称大川橋。橋の袂に大川楼があったことから地元では大川橋という)の下のここで川を渡り、少し先の斜め右(真ん中の電話塔のところ、次の写真参照)に進んでいるとの説明。

その斜め右の道がこの道

8:52 白雲山上宿観音堂 
秦野市に古くからある上宿商店街には上宿観音がある。
 上宿観音は、相模新西国三十三番札所の一つで、「開運・厄除け」や「子授け・安産」にご利益がると親しまれている。
 本堂に祭られている本尊は行基(天智天皇 7年( 668年 )~天平 21年 ( 749年))の作と伝えられる千手千眼観世音菩薩像である。それ故に観音堂と呼ばれている。
 縁日は毎年8月9日、この日に参拝すると四万八千日分のご利益があると言われる「四万八千日法要」と12年ごとの丑年に「ご開帳法要」あり、この時には多くの参拝人で賑わう。
 境内には火災鎮護の秋葉神社もあり、5月にはご祭礼が催される。また楚々と咲く「こぶし」と「しだれ桜」、そびえたつ3本の「大イチョウ」は、それぞれが早春には白とピンク、秋には黄と見事な彩りを見せてくれる。
観音堂には「本町上宿自治会集会所」の看板も掛かっている。
観音堂の懸魚が鳥ではなく、龍の彫刻である。江戸時代の寛政年間(1789年~1801年)に建立されたと考えられているから、その時に彫られた懸魚であろう。




9:06 イオン秦野店の前にある軽便鉄道の駅跡の碑

9:18 末広石仏群
金目川に架かる入船橋を渡ると右に、文化11年(1814)・昭和4年(1929)建立等の馬頭観世音、昭和元年(1926)建立「百萬遍供養塔」等の石塔群が祀られています。
中でも右側には、上部に馬頭が陽刻されている(下写真)


9:22 更に道なりに進み落合の交差点を越えてすぐに矢倉沢往還の碑があった。

9:32 開進小学校跡の碑の横に縁切り地蔵と言われる地蔵堂がある。





9:34地蔵堂の所を右折して進むと常夜灯があった。


9:37 漸く大山から雲が切れ、雪の大山が見えた。

9:39 地味ながら秦野にしかない風俗として、神社の境内や鳥居の傍らなどに見られる、「天社神」という文字が彫られた石塔がある。


9:42 御嶽神社
江戸時代は三嶽蔵王社と呼ばれ、平沢村の鎮守であった。拝殿は1976年(昭和51)に新築されたが、本殿は1693年(元禄6)の建築である。古くは、1609年(慶長14)と1643(寛永20)の修造棟札建築が残っている。
神社には、1742年(寛保2)に奉納された「源頼政鵺退治図」の額がある。また境内にある2本の大ケヤキは秦野市指定保存樹になっている。






境内社


境内にあるタブノキ



御嶽神社を出て右に行くと隣接して庚申塔などがひっそりとある


9:57 更に進むと道祖神他があった

そのうちの一つに穀龍神を書かれた石仏があった。

9:59 大山を望む

10:04 双体道祖神

盃を酌み交わす姿が珍しい


その反対側に常夜灯があったが何故か潰れている

10:05 国道246号を潜る道

トンネルを出たところ

10:08 しだれ梅

 10:11 秦野国際乗馬倶楽部の反対側にある善波道標(もともとの場所ではないらしい)
頭襟(ときん)型の道標は珍しいとか

乗馬クラブに馬が見えた。結構有名人も来るらしい。

10:33 ランチの場所である弘法山に到着

釈迦堂





乳の井戸

11:20 右が大山 この日は富士山は雲の中!



11:40 旧善波隧道へ向かう


中は寒い!

トンネルの上の竹藪の後ろが大山へ向かう道がある。

12:19 太郎のちから石
平安時代が終わりに差し掛かり武士の時代が幕を開こうとした時代に善波氏も起こった。鎌倉幕府の御家人となった善波氏は室町時代になると足利氏に従い武州平一揆の討伐に従軍したことが案内板に記されていた。その子孫は三嶋神社の禰宜となったらしい。善波氏は糟屋党の出身のようだがその系譜はよくわからない。地元では善波太郎善氏を英雄視しており彼にまつわる伝承もいくつか残されている。

善波太郎にまつわる地名の由来
鈴のついた旗が北の空から飛んできたという。それで、善波太郎という弓の名人が剛弓を引いた。善波太郎が、弦に水をかけた弦しめしという場所がある。旗は射落とされ、鈴の落ちた川を鈴川という。また、矢の飛んで行った先に矢崎という地名がある。旗の落ちたところが落幡、昔鶴巻を落幡といった。

12:21 矢倉沢往還。本来ならこの道を通る予定であったが雨で道が泥道と化しているので避けてきた。

12:22 道しるべ

12:23 鳥供養があった。

12:36 箕輪駅跡

10世紀(平安時代)に完成・施行された『延喜式(えんぎしき)』という律令法の施行細則をまとめた法典に、当時の東海道に置かれた「箕輪駅」というのが登場します。この箕輪駅の所在地として、伊勢原市笠窪字三ノ輪を比定して「箕輪駅跡」として史跡に指定されました。

「駅」とは「駅家(うまや)」で、飛鳥時代から平安時代にかけて、東海道のような主要幹線路である駅路(えきろ)に置かれたものです。律令国家は中央と地方を一元的に支配するため、「駅伝制(えきでんせい)」により、情報伝達のための機構を整備しました。中央から地方へ、地方から中央へとスムースな情報伝達のため4~5里(16~20キロメートル)の間隔で駅家と呼ばれる施設が設置されました。駅には当時の最速の乗り物=駅馬(えきま、「はゆま」「やくめ」とも呼びます。)を置きました。駅に置かれる馬の頭数も法令で定められていました。駅は公式な施設で食事や宿泊の場としても利用されました。

駅路の沿線には、国府や郡家(ぐうけ)と呼ばれる地方支配のための役所が置かれました。

箕輪駅の所在地には伊勢原説の他、秦野説、平塚説がありました。伊勢原説は字三ノ輪という地名だけでなく、当地点あるいは近くを古東海道が通過していたという考えによります。これは相模国府の所在地と関連するものです。かつて相模国府三遷説(海老名市→大住郡→〔大磯〕)が唱えられていました。大住国府の位置を三之宮比々多神社から遠くない伊勢原市内にあったであろうとの説です。

近年、平塚市四之宮の坪ノ内遺跡第7地点の発掘調査で国庁の脇殿(わきでん)と想定される遺構が検出されました。また、東海道とされる道路遺構も発見されました。年代は8世紀です。

国府や駅路の整備はばらばらに整備されたものではなく、一体的に整備されたといわれています。伊勢原の箕輪駅跡も再検討を行う段階にきているように思われます。





12:38 浄土宗西光寺
源頼朝の家臣・和田義盛公の側室が亡き夫菩提の為にと持仏の阿弥陀如来を祀ったのがはじまりと伝わります。本堂天井には旧本堂の龍図、中将姫観経曼荼羅を織る図があり中将姫に関する伝説もあります。 境内には和田一族の墓地もあり参拝しました。



12:47 出羽三山供養塔

梵天 その昔、出羽三山の修験者が各地を巡回し、ある時、修験者の一人が此の地で、病にて入寂した。土地の人がこれを哀み供養のため、羽黒山先達の了善が願主となり供養塔を建立し、梵天さんと名付けて供養し、現在に至っています。


12:52 陣屋

元湯・陣屋(もとゆ・じんや)は、神奈川県秦野市鶴巻温泉にある旅館陣屋旅館(じんやりょかん)の通称で知られている。

以下、本記事では「陣屋」と表記する。

旅館の敷地自体は、鎌倉時代に当時侍所別当だった和田義盛の陣地の一部であったとされる[1]

温泉に恵まれた当地に、1918年(大正7年)に三井財閥が御寮(接待所)として「平塚園」を建て、大正の終わりに旅館となった[2]太平洋戦争の直後に現社長(2017年現在)の祖父が買収し、現在の経営体制となった[3]。将棋や囲碁のタイトル戦で使われる「松風」(三つの間が続いており、一番奥の間で対局する[3])は、旧福岡藩主・黒田侯爵家が明治天皇の宿泊のために大磯別邸に設け、三井財閥が当地へ移築したもの[4]

1926年(大正15年)に将棋の関根金次郎十三世名人が対局場として陣屋を指名して以来[4]将棋囲碁のタイトル戦が数多く行われており、2018年4月現在で300回を越える[5]。新聞社以外で将棋の公式対局が行われたのは陣屋が初とされる[4]陣屋事件の舞台としても知られる。


陣屋通路

12:58 常夜灯
泉郷に公営の”弘法の湯”がある。その入り口に石組みの”常夜灯”(塔)が立てられている。
高さ4メートルほどで一番上に火屋、その下に「大山講」の彫り文字、さらに目の高さに句を彫った石版が埋め込まれている。
句にいわく『虫時雨 大山能は なほつづく』『黄虎』(黄尾?)とある。”大山能”とは現在でも大山(伊勢原)で行われている薪能のことであろう。作者や建碑のいきさつはまだ調べてない。

この句碑にに「鶴巻温泉 光鶴園」の文字も採拓。この公衆温泉はもと”光鶴園”という温泉旅館だったのが廃業にあたり市が購入して新築公営としたもの。

鶴巻温泉駅そばには秦野市立の温泉弘法の里湯がある。
温泉に併設して秦野市立宮永岳彦記念美術館がある。

洋画家・宮永岳彦(1919年~1987年)は『光と影の華麗なる世界』と称される美人画で知られる。その特有な世界を創りあげていた流麗な線と華やかな色彩は、戦前から1960年代に至るグラフィックデザインでの研鑽が預かるところも少なくない。

 父親の転勤のため静岡県磐田郡(現在の磐田市)で生まれ、名古屋市立工芸学校に学んだ。2度の兵役後、実家のある秦野市名古木に帰り、アトリエを構え、松坂屋百貨店銀座店宣伝部に勤務しながら、1946年(昭和21年)から15年間にわたり創作活動を続けた。

 その後、東京都新宿区筑土八幡町に居を移し、1979年(昭和54年)に日本芸術院賞を受賞、1986年(昭和61年)には二紀会理事長に就任、油絵はもちろんのこと、ポスター、書籍等の表紙画と装丁、挿絵、水墨画に及ぶ異色というべき多彩さで作品を残し、それぞれ第一級の先駆的業績をあげた。
 また、『ぺんてるくれよん』のパッケージ(向かい合う男の子と女の子)や『小田急初代特急ロマンスカー』(3000形SE車)の内外装のデザインも手がける。


宮永岳彦は、多彩な画業の中で、企業のポスターやカレンダーなど、多くの商業デザインを生み出しました。

その中でも、小田急電鉄との関係は深く、箱根、丹沢、江ノ島をはじめとする観光ポスターシリーズをはじめ、特急の車内誌「武相旅情」、「車窓の春」などの表紙絵、そして、現在のロマンスカーの原型となった特急ロマンスカー3000形(SE)の外装カラーデザインとその内装など、小田急関連のものを多く手がけるなど、小田急電鉄と深い関わりを持っていました。

このたび、秦野市は、昭和2年の小田急小田原線開通以来、深い関わりのある小田急電鉄株式会社と、鉄道の日(毎年10月14日)にちなんで、平成28年10月14日(金曜日)から、「秦野市立宮永岳彦記念美術館」において、小田急関連の常設展示コーナーの開設などにより、美術館の魅力向上と地域活性化に向けた事業を展開している。



13:06 小田急線鶴巻温泉駅

富士山は一度も顔を見せなかったが天気も回復し大山などの丹沢山系は見えた。

雨で予定のコースは通れなかったが、充実したウォーキングであった。