2023年7月25日火曜日

7月18日から24日 佐久訪問

2023年7月25日火曜日9:30 快晴で朝から暑い!

 18日朝7時開成町(標高39m)を車で出発し、山中湖、甲府経由で長野県佐久市に住む次女一家の新居へ向かう。距離的には200キロ程度。

ルートは、山北町で国道246号線に入り小山町菅沼の交差点で右折して須走方面へ向かう。須走インター(850m)から東富士五胡道路に入る。富士吉田インター(872m)で降り河口湖大橋を渡り御坂トンネル(出口1008m)を抜け、途中リニア新幹線実験線をくぐり、中央高速一宮御坂インター(348m)から高速に入る。この下り坂で650mも標高を下がる結構な下り坂だ。

中央高速双葉サービスエリ(329m)で愛犬トト君のオシッコタイムを兼ね休息。 

その後韮崎インター(437m)の先で作業渋滞のためここで降りて国道141号線で野辺山方面へ向かう。当初は長坂インター(703m)まで行く予定であったが、国道に出るまで渋滞していたもののその後は渋滞もなく順調に進む。長坂インターまで行かなくても韮崎インターで下車も今後はありと考えを改める。

 9:20 国道141号線を進み休憩を兼ねて、野辺山にあるヤツレン野辺山乳製品直売所(1360m)で牛乳フロートを食べる。乳製品が旨い!且つ涼しい!!!


八ヶ岳をバックに!
9:30 小海線野辺山駅に立ち寄る。国鉄最高地点野辺山駅標高1345.67mの標識があった。向こう側が駅。少し待ったが電車は来ない!
愛犬トト。15歳と老犬。


野辺山を出て佐久へ向かう。これからは下りの連続だ。

16:06 佐久市滑津駅そばに住む次女一家の新居(663m)に到着、休息後、孫たちと小海線の踏切を渡りアイスクリームを買いにウエルシアへ。

佐久平駅方面。なかなか電車は来ない!
野辺山方面

 
19日水曜日11:00 車を出そうとして田んぼの法面にタイヤを少し落としてしまい動かせなくなってしまった!ピンチ!!
保険代理店、損保ジャパン経由でレッカー車で引き揚げてもらう。助かった。
右前のタイヤが空回りして地面を掘ってしまった。
押し上げようと試みたが一人では無理。周りは田んぼ故人はいない!

22日日曜日快晴

佐久に到着後は孫の迎えや自宅の掃除などをしてのんびりと読書。日中は結構暑いがエアコンがなくても何とかなるギリギリのところ。朝晩は意外に涼しい。就寝時は窓を閉め布団でお休みだ。

日曜日は孫たちと別れ妻と近辺を散策。 

9:24 次女お勧めの曹洞宗貞祥寺(700m)へ。

大永元年(1521年)、この地を治めた前山城主の伴野貞祥公が、祖父と父の追善のために開山した曹洞宗の寺。

室町時代1521年に、前山城伴野貞祥が父・光利の7周忌、祖父・光信の33周忌の追善供養のために、叔父である僧・節香徳忠を招いて建立し[1]、永百貫文の寺領を寄進した[2]
七堂伽藍(しちどうがらん)を整え、信濃毎日新聞社刊「信州百寺」に選ばれた佐久を代表する古刹である。

七堂伽藍:金堂・塔・講堂・食堂・鐘楼・経蔵・僧坊・回廊・門など、必要な建物を備え、侶が集まり修行する清浄な場所を指し、大本山クラスの寺院の代名詞として使われる。

杉や欅の大木が立ち並ぶ参道は美しい苔の回廊ともなっており、真夏でもひんやりとした厳粛な空気に包まれている。
参道の石段を登って行くと、茅葺き屋根の「島崎藤村の旧宅」がひっそりと佇み、4月から11月の間はこの古き良き日本家屋を見学ができる。
途中にある総門は承応2年(1653年)建立したこの寺最古の建造物であり、続く茅葺の山門には増長天と持国天の仁王を左右に配し、山門の隣には鐘桜が配置される。
澄んだ水をたたえ、観音様が佇む古池の前には、僧侶が集団生活を行いながら修行をする僧堂が建立されており、定期的に坐禅会が開催される。
貞祥寺は、特にヨーロッパにおける禅普及において中心的な役割を担った寺のひとつであり、現在でも著名な禅道場として海外に知られるとともに、ヨーロッパから訪れる禅の愛好家が多い。
僧堂の奥にある三重塔は、明治三年廃仏毀釈で廃寺となった小海町松原湖畔の神光寺から移転したもので、紅葉スポットとしても知られ観光パンフレットや広告にしばしば登場する。

 入口を間違え車道から入って逆行してしまった。








茅葺の山門には増長天と持国天の仁王を左右に配している。












僧堂の奥にある三重塔は、明治三年廃仏毀釈で廃寺となった小海町松原湖畔の神光寺から移転したもの





三重塔の壁四方に飾られていた







水は冷たかった!
地層
水がきれいで透明だ。
水路は木製だ



苔が美しい





総門を通してみた山門
総門は承応2年(1653年)建立したこの寺最古の建造物。後ろは山門。
これも木製だ



説明にある象が鼻を巻き上げた木鼻に見える

通用門








島崎藤村が明治32年から明治38年の6年間住んだ家




寺の入り口にあったお地蔵さん

11:15 小諸の布引観音へ向かう前に次女お勧めの佐久市望月にある「YUSHI CAFE天保堂珈琲」で一休み。

11:27 たなたま道沿いに標識があった重要文化財がある福王寺へ向かう。

福王寺(ふくおうじ)は、長野県佐久市にある真言宗智山派寺院山号は雫田山、院号は竹仙院。

寺伝によれば大同2年(807年)、当時この地を治めていた豪族によって創建されたという[1]延暦20年(801年)、東山道陸奥国に向かう坂上田村麻呂が通った際、豪族の妻が病に伏していたことから田村麻呂に同道していた僧侶が薬を与えたり祈祷をするなどしたものの亡くなった。それを知った田村麻呂は墓を造りその場所から見て一番良い場所に寺を造るように言い残して旅立ったことから、現在の場所に寺が建立されて福王寺と名づけられた[1]

鎌倉時代になると望月氏の庇護を受け、本尊阿弥陀如来坐像が造立されて信仰を集めたが、江戸時代初期の寛永年間(1624年 - 1645年)に発生した山火事によって阿弥陀如来坐像と日光菩薩月光菩薩毘沙門天、雨宝童子など僅かを除いて全山を焼失。古文書などの記録や寺宝の多くが失われたものの、宝永6年(1709年)までには現在も残る本堂や仁王門などが再建された[1]

1975年昭和50年)収蔵庫が建てられ、それまで阿弥陀堂に安置されていた阿弥陀如来坐像はこちらに移されたほか、1992年平成4年)には観音堂が建立されている[1]。また、境内には樹齢300年以上とされるシダレザクラがあり、現在では桜の名所としても広く知られている[2]







収蔵庫。このなかに重要文化財の阿弥陀如来坐像がある。


  • 木造阿弥陀如来坐像
像高138.8センチ、桂材の一木造[3]。胎内銘によれば建仁3年(1203年)に幸筌という僧が堂を建立、如来像を造立したとされる[4]。同じく銘によれば建長2年(1250年)、暦応3年(1340年)、元禄9年(1696年)に補修などが行われた[5]1914年大正3年)に当時の古社寺保存法に基づき国宝(旧国宝、現行法の重要文化財に相当)に指定された。


内部の写真



聖観音








人が居たので拝観はできるのかと聞いたら住職言えばいつでも大丈夫だよと。ただ今日は法事だから難しいと。残念!

12:05 小諸市布引観音に到着

小諸駅の西よりにある行基創建という天台宗の名刹。断崖絶壁にかかる観音堂(重文)に安置されているのが、牛に化身して、強欲な婆さまを長野善光寺(天台宗)に連れていったという布引観音様です。
 「牛にひかれて善光寺参り」とは布引山釈尊寺に伝わる縁起書にある幻牛伝説で、むかし信心を持たないおばあさんが、自分が干していた布を角にひっかけ走り去る牛(観音様)を追いかけ、気が付くと長野の善光寺までたどり着いたことから観音様の導きだったと悟り、今までの欲張りで意地悪な心を悔い改めたと伝えられています。その逸話から「思ってもいなかった出来事や、周りからのはからいによって、自分が良い方向へ導かれること」のことわざとなっています。
 正式名称は、天台宗布引山釈尊寺。信濃三十三観音霊場の第29番札所にあたります。神亀元年(724)行基による開基と伝えられています。望月の牧と深いかかわりを持つ寺で、滋野氏(望月氏)とのつながりも古くからあったと推測されます。
 岩を削って数多くの伽藍(がらん)が安置され、江戸時代には「断崖の観音様」として絵図で紹介されるなど、街道を往来する人が足を延ばし賑わいました。
 布引観音の崖には200万年前から数十万年前まで存在した古小諸湖の堆積物による地層が露出して、長さ16mの「布岩(ぬのいわ)」があります。この布岩が「牛にひかれて善光寺参り」の仏話発祥の元になったのではないでしょうか。この岩の下の里を布下村といいます。  

本堂、仁王門、護摩堂、客殿、大師堂、聖徳太子堂、愛染堂などが建てられており、西行法師(1118~1190)が3年修行した西行窟・爪で岩に経文を刻んだ爪彫り岩・芭蕉句・西行塚・開基行基菩薩・供養仏などが草むらの中に静かに佇んでいます。また、虚空蔵菩薩が堀ノ内城から移設されています。

 三年経て 折々さらす布引を 今日立ちそめて いつか来て見ん(西行)

 蝙蝠(こうもり)も 出よ浮世の 花に鳥 (芭蕉)

天文17年(1548)年武田信玄が楽巌寺入道雅方、布下仁兵衛を攻めた時に楽巌寺城・堀ノ内城・桝形城が兵火にかかって焼失し、釈尊寺の諸伽藍も灰燼(かいじん)に帰しました。弘治2年(1556)望月城主滋野左衛門佐が本堂を再建しましたが、享保8年(1723)野火の為再び炎上しました。寛延2年(1749)小諸城主2代牧野康周(やすちか)により本堂が再建されました。本堂屋根には天台宗の寺紋が掲げられています。
 大正15年(1926)~昭和11年(1936)まで布引電気鉄道が敷設され、参道の入り口には布引駅がありました。千曲川に架かっていた鉄橋の橋脚跡が今も残っています。  

白山社社殿は、室町時代(1394~1573)中期以前の造立とされ、御牧ケ原白山地籍に祀られていたものを移築したと伝えられていて、昭和34年(1959)に修復されました。一間社(いっけんしゃ)、春日造、柿葺、大面とりの柱や破風、木連格子、破風の上の鬼板のひれ及び丸紋などは室町時代の特徴をよく表わしています。



12:07 登り口標高546mから観音堂684mまで急坂を登る。


地層

滝があった


沢蟹を見つけた





次の写真のように高いところにあった像

観音堂の下にある山門




12:30 やっと見えてきた。

奥の観音堂へ向かう

観音堂は、岩窟の中にあり、拝殿部分は朱塗りの懸崖(けんがい)造りの舞台となっています。拝殿を支える8本の太柱は6丈8尺(20.6メートル)の高さがあります。天正20年(1592)に造営されたと考えられています(永正元年(1504)との説もあります)。
釈尊寺は幾度も戦火に遭っていますが、岩屋の奥深くにあった観音堂も宮殿(くうでん)も焼けずに残っています。
 本尊聖観世音(しょうかんぜおん)・左に十一面観音・右に馬頭観音・百体の黄金色に輝く仏像群と宮殿が納められています。拝殿の格天井も見上げてみてください。 

観音堂宮殿は懸崖造りの観音堂の岩屋の中に安置され、兵火の難をまぬがれて鎌倉時代の正嘉2年(1258)建立のまま現在に至っています。
 秘仏の聖観音の厨子(ずし)として造営されたものですが現状は秘仏の聖観音は石窟内に納めて(本堂に保存、安置されているかもしれません)、厨子は空室のまま観音堂内に保存されています。
 岩屋内の湿気による、背面と側面の腐食のため、昭和26年(1951)に修理復元しました。正嘉2年の棟札(むなふだ)が残っていて、昭和26年の修理まで一度も手を加えられていない貴重なものです。  

清水寺に似た造りだ。









このトンネルの先に観音堂がある。




観音堂からみたトンネル





観音堂から北側を望む
観音堂から下を覗く
絵天井
何か彫られているかな?と思ったが。


12:46 下山開始。上がってくるときは気が付かなかった風鈴
13:06 無事下山。滑りそうでちょっと心配した。
24日月曜日の朝5:30 今日は帰宅の日だ。八ヶ岳方面
小諸方面
新居全景
前の畑で

10:00 9時に次女一家の新居を出発。野辺山で来る時と同じソフトフロートを食べる。気温25度。甲府は35度かな?


 野辺山からは行と同じ道をのんびりと行く。甲府周辺やはり35度、一番暑かった。

次は8月中旬に行く予定です。