2023年10月28日土曜日

10月23日矢倉沢岳トレッキング

 2023年10月28日土曜日15:40 晴れ

23日に夏以降初めてのトレッキングに行ってきましたが、従来の方法では何故かブログが立ち上がらず、Google Chromeに変更して漸く立ち上げることができました。

23日朝天気も良いの矢倉岳(標高870m)に足慣らしのため出かけました。


9:34 矢倉沢公民館(標高248m)に車を停めて、山ヒル対策のために靴に塩水をかけて出発。標高差は622mあるが、途中には下り坂はなくほとんどが登りで且つ急。足慣らしには最適の山。急坂なため特に下りには気をつかう必要がある。

9:51 急坂の林道を登って標高387mあたりにある柵まできました。意外と疲れます。松田町で熊出没情報が町のHPにあった。声を出しながら登ることに。

柵から見た相良平野。東名高速の大井松田インターが見える。


10:13 途中にあった標識

10:23 杉やヒノキ類から植生が変わってきた。少し紅葉してるかな?

10:24 木に生えていたキノコ類


10:25 こんな大きな葉っぱが!

10:34 グーグルレンズによればセンボンヤリらしい。

10:46 まだ続く坂!

10:48 もうすぐかな?

10:51 登頂。約1時間20分。富士山がきれいです。
山頂には鷹などを撮る写真家がいました。鷲、鷹などの写真を撮っているとのこと。多いときは10人以上いるそうです。
山が急なので上昇気流に乗って上がってくるそうです。この辺りには鷹が3羽ほど生息しているそうで、今日はハヤブサが二羽いたそうです。話をしている時にトンビが舞っていましたが興味なさそうでした。
金時山方面
富士山方面

11:13 下山開始。慎重に下ります。

11:14 山頂から少し降りたところの落ち葉です。

11:17 トリカブトらしいです。


11:18 落ち葉と苔

11:26 急坂です。

11:50 柵まで降りてきました。40分弱です。

12:06 矢倉岳です。


50分ほどで下山できました。往復3時間ちょうどよい運動でした。

 

2023年10月13日金曜日

10月12日秦野市観光ボランティアと歩く 軽便鉄道をあるく

2023年10月13日金曜日11:30 快晴

昨日は秦野市観光ボランティア協会主催のウォークに参加。コースは小田急線秦野駅を出発し軽便鉄道の始発駅へ向かう。そこからJR東日本二宮駅までの約10Kを歩く割と平坦な道。天気は快晴、ウォーキング日和だ。歩数は19千歩だった。

秦野~二宮間を走っていた軽便鉄道(SL)歴史の旅へGO!!

軽便鉄道は、明治39年(1906)湘南馬車鉄道株式会社が秦野駅(現在の本町三丁目)から、吾妻村(現在の二宮町二宮)間の道路9.6キロメートルに、幅2尺5寸(76.2センチメートル)の軌道を敷設した馬車鉄道の運行が始まり です。

この鉄道は、明治35年(1902)東海道線二宮駅の開設に伴い、吾妻村の有志が秦野町や南秦野村、井ノ口村の有力者と協力してできました。

馬車鉄道は1頭の馬が小さな貨車を引くもので、 明治43年(1910)6月の時刻表から、秦野~二宮間を片道65分~75分かけ1日11往復し乗車賃は片道16銭、往復30銭だったことがわかります。

大正2年(1913)には、動力が馬から無煙炭燃料汽動車(蒸気機関)に代わり、社名も湘南軽便鉄道株式会社となりましたが、大正7年(1918)に湘南軌道株式会社へ軌道特許権が譲渡されています。

軽便鉄道歴史の旅1

当時の沿線は、わら葺屋根の民家がほとんどで、火の粉の飛散を防ぐため、独自に開発したラッキョウ型煙突を付けた機関車が、客車や貨車を牽引していました。

客車には秦野地方専売局の職員や大山への参拝者が、貨車には葉たばこ、たばこ製品、木材、綿糸など、この地域の産品が多く積まれ、産業の発展に大きな役割を果たしました。

軽便鉄道歴史の旅2

しかし、自動車の普及や小田急線の開通により、利用者が減少し、昭和12年(1937)に姿を消しました。

軽便鉄道歴史の旅3

  • 秦野駅の記念碑はイオン秦野店の入口の信号付近にあります。
  • 台町駅の記念碑は本町二丁目11番の信号付近にあります。
  • 大竹駅の記念碑は西大竹の嶽神社付近にあります。
  • 軽便みちの道標は、NTTの前、養泉院の前、上智大学入口信号付近、嶽神社付近、大竹バス停付近にあります。

軽便鉄道歴史の旅4 軽便鉄道歴史の旅5
『軽便鉄道 歴史継承事業報告書』より

 

7:50 開成駅からみた富士山  初冠雪の雪はほとんど消えている。

 今日のコース表 

8:38 秦野駅を出発。

イオン秦野店の前にあるNTTのビルに到着。ここが軽便鉄道秦野駅の出発駅だった。(写真は2年前のもの)

 

 9:04 旧軽便鉄道秦野駅にある碑

9:10 天台宗龍門寺の駐車場あたりを軽便鉄道が通っていた。
龍門寺は、1591年〈天正19〉に徳川家康から寺領5石(こく)の朱印を受けている。その墓域(ぼいき)には、1848年〈嘉永元〉に、54歳で亡くなった岡田正司の筆子塚がある。越後藩士だったが、浪人となって曽屋村に住み、妙相寺で寺子屋を開いた。門人200余人が師匠のために建てた墓である。また、元町に塾を開いた亀井愛水〈溝呂木守道〉は、1869年〈明治2〉に龍門寺に塾を移し、修身館と称した。1873年〈明治6〉に修身館は公学と認められ、第154番小学の初代校長となった。本町小学校の前身となった修身館は、1877年〈明治10〉に火災で焼失してしまった。当時の生徒数は、男子185名、女子82名と伝えられている。龍門寺には、曽屋水道の功労者である梶山良助の墓もある。
遠くに見える山は大山
なぜここに来たかといえば「御門」(みかど)の名の由来を説明したいため。平将門が当初この地に都を定めようと思いここに住み始めた。都故京風の地名を付けたが、結局夢でこの地は都として良くないとお告げがありこの地を離れたとか。
9:24 台町駅 最初はここが秦野駅であった。
9:27 天台宗命徳寺着

江戸時代初期に建築された茅葺き屋根の古い山門のあるお寺。

山門は薬医門という形式で、横から見ると、垂木が中心より前方にあるため、屋根全体が前の方に片寄っています。市の重文です。

秦野に残る古い建築物の一つで、平成15年に秦野市の重要文化財に指定されました。命徳寺本堂は、1651年(慶安4年)頃に再建されたという記録はありますが、当初のものは内陣まわりに残っているだけということです。

 

薬医門のいわれは、一説には矢の攻撃を食い止める「矢食い(やぐい)」からきたと言われています。
また、かつて医者の門として使われたことからとも。
門の脇に木戸をつけ、たとえ扉を閉めても四六時中患者が出入りできるようにしていたもといわれていますが、この構造でなければならない理由はなさそうです。
構造の詳細は下の写真と図でご覧ください。
基本は前方(外側)に2本、後ろ(内側)に2本の4本の柱で屋根を支えます。
特徴は、屋根の中心の棟が、前の柱と後ろの柱の中間(等距離)に位置せず、やや前方にくることです。したがって前方の2本の柱が本柱として後方のものよりやや太く、加重を多く支える構造になります。
特徴は、屋根の中心の棟が、前の柱と後ろの柱の中間(等距離)に位置せず、やや前方にくることです。



弘法山トレイル中一番秦野駅に近い権現山が見えた。
9:39 天台宗養泉院   この前の道を軽便鉄道が通っていた。
寺の前の道は二宮方面に向かって坂で、この鉄道で一番の難所であった。乗客は坂の手前で降りて歩いて登った。そのためこの辺りには茶屋があったそうだ。

9:53嶽神社  

元大竹村は、鶴疇山(つるとしやま)八幡宮の氏子でしたが、正保年間尾尻村より分村、桃山時代より尊崇していた御霊社を嶽神社と改名し、独立氏子となりました。









9:59 大竹駅
10:36 井ノ口の大山道標  右は大山道、左は富士山方面

10:37 上井ノ口駅
10:40 蓑笠神社着

蓑笠神社は秦野市から二宮町に抜ける県道711号線の旧道沿いにある神社で、蓑笠という変わった名称は、祭神の素戔鳴命が旅の途中、この地に蓑笠を置いていったからといわれているそうです。
  南側より長い参道が続いており、両側にはケヤキの大木が立ち並んでいます。参道入り口に立つケヤキと、参道最奥の本樹が特に大きそうです。参道奥の拝殿前に立つケヤキが「蓑笠神社のケヤキ」と呼ばれるもので、上部から根元に通じる大きな空洞がありますが、古い時代の落雷の影響だと伝えられています。
  そのために樹高も樹冠も小さめなのですが、根元のすぐ脇に石垣が迫っており、これが樹勢に多分に影響しているようです。
  参道のケヤキは概して古そうですが、拝殿周囲にあるケヤキは直幹のケヤキで姿が良く、まだまだ若々しい姿をしている。
  200年ほど前に補植をしたのでしょうか、100年後くらいには今見ている御神木のケヤキに変わり、世代交代と成りそうな勢いです。
  かながわの名木100選の選ばれていますが、どちらかというと地味な存在のケヤキ、そんな印象が強いようです。


「蓑笠神社のケヤキ」

蓑笠の由来
摂社として菅原神社があった!


蓑笠神社入口
10:55 トイレ休憩に寄った自治会館にあった当時の蒸気機関車の模型
11:35 ランチは厳島湿生公園で。 散策中湧き水を見つけた
厳島神社

池にはカモがのんびりとしていた。逃げないのが面白い。
12:12 曹洞宗米倉寺  

当山は、井寶山 米倉寺と号し、曹洞宗に属する寺院です。
天文元(1532)年の開創で、開山は天宥宗高大和尚(秦野市堀山下の米倉一族の菩提寺である蔵林寺の二世)。もともとこの地には用国院という寺院があり、伊豆の普門院を本寺と仰ぎ、宮の鳳安寺を末寺に従えておりました。
その後、甲斐武田家の家臣であった米倉丹後守種継公が井ノ口に移住して来た際、両親追善と自己安住のため、用国院を再建して米倉寺と改名しました。
さらにその後、蔵林寺の末寺となり鴨沢大泉寺を末寺としています。
江戸時代末期には寺子屋を兼ね、やがて、井ノ口小学校の前身である誠成館に発展した寺であり、学校が独立した後には井ノ口村役場となり、昭和に入ってからは託児所、疎開児童の受け入れ等を行いました。

右から5つ目が米倉一族の清継(家康の関東入府後200石を与えられた)の宝塔(墓)らしい。 

宝塔は、広義にはすべての仏塔に対する美称であるが、狭義には円筒形の塔身に方形の屋根を架け、頂上に相輪(そうりん)を立てた形式の一重塔をいう。 平安初期に密教とともに伝来したが、宝塔の形は南天鉄塔(南天=南天竺(てんじく)で南インドのこと)に由来するといわれる。

おく四つが宝篋印塔(ほうきょういんとう) 

宝篋印塔は、供養塔や墓碑塔などに使われる仏塔の一種で、中国からの伝来後日本で独自の発展をしてきた塔です。五輪塔とともに平安時代以降多く造られ、石造の遺品が多く残されています。
一般的に上から「相輪(そうりん)」「笠」「塔身(とうしん)」「基礎」「基壇」で構成され、笠の四隅には「隅飾(すみかざり)」と呼ばれる突起があるのが特徴です。

甲斐武田家の家臣であった米倉丹後守種継公は徳川に寝返ったとことから隠れ武田家の者が種継公の子供の清継の宝篋印塔に刀で傷をつけたとか。
米倉家は徳川で出世し、秦野市内で蔵林寺を菩提寺とした。その後米倉家は横須賀に移り、徳川時代最後まで生き延びた。


写真はないが、この寺には左甚五郎作の龍が2体ある。
12:29 米倉寺を出てすぐにある一夜門
12:37 下井ノ口駅
12:53 途中にあったお堂 二宮に入りました。
13:09 一色駅
13:29 中里駅
13:34 萬年堰

この辺りに堰があったそうだ。
13:37 落花生を扱う専門店
13:52 終点二宮着
13:54 JR二宮駅 ここで解散、お疲れさまでした。
14:58 JR御殿場線経由で帰宅。上大井駅で下車。単線です。
この電車できました。