2023年11月4日土曜日
昨日は南足柄市観光ボランティア協会主催のウォーキングに参加。名瀑洒水の滝と河村城址そして室生神社の流鏑馬見学と楽しみが多いコースとなっている。
7:26 集合場所が大雄山線の大雄山駅のため、開成町の自宅から歩いて向かう。約40分の道のり。
創建年代等は不詳ながら、江戸期には、永禄11年(1568)に開山した泉蔵院持の堂宇として江戸時代後期の地誌新編相模國風土記稿に記載されています。
現在の山北町周辺を支配していた河村氏が、山頂付近に砦のようなものを築いたのが河村城の始まりと言われています。南北朝時代の記録に「河村城」と書かれているので、このころには城があったと考えられます。
では、今、浅間山に連なる丘陵の山頂にある河村城はいつの時代の城の姿を残しているのでしょうか。それは戦国時代、河村城が北条氏の城だった頃の姿です。
しかし、河村城には小田原城のような、水を蓄えた大きな堀や石垣、天守閣はありません。それは、河村城が山城と呼ばれる城だからです。
山城とは山のでこぼこした地形を活かして敵に攻められにくいようにつくられた城で、山頂付近には山を削ったり、土を盛ったりして、平らにした郭(くるわ)があちらこちらにあります。山城は戦いになった時だけ使われた城で、普段、人々は山のふもとの平らな土地で生活していました。河村城では南側のふもと(現在の岸地区)が生活の場所であったと考えられ、河村館跡(かわむらやかたあと)と呼ばれる遺跡が残っています。
室生神社
社伝によれば、天正8年(1580)の草創とあるが、『新編相模国風土記稿』には、室生神社は始め中川にあったものを天正8年、岸に移転し、その後地主神として祭られている天神の社(現在地)に遷宮したとあります。現在、中川には大室生神社があります。
祭神は建御名方尊(たてみなかたのみこと)、日本武尊(やまとたけるのみこと)、菅原道真などのほかに、明治42年3月1日無格社27祭神を合祀しています。なお、同社には和鞍数背が保存されていますが、そのうち3背にはそれぞれ寛永12年(1635)、万治3年(1660)、寛文6年(1666)と記されており、県指定の附(つけたり)となっています。
山北町山北の宮地に所在する室生神社に伝わるもので、起源は源頼朝の石橋山挙兵の際、平家方に味方したため領地を没収され、斬刑に処されるところであった河村義秀(かわむらよしひで)が、鎌倉で行われた流鏑馬の妙技により刑を免ぜられ、旧領に復帰できたという故事(『新編相模国風土記稿』『吾妻鑑』)によるとされています。
故事では鎌倉で流鏑馬が行われたのは建久元年(1190年)なので、義秀が旧領に復帰した翌年から「室生神社の流鏑馬」が始まったとすれば、現在まで約800年余り続いていることになります。
農家の人々により受け継がれていた時期もあり、かつては的の当たり矢によって翌年の稲作を占う神事としても行われました。三つの的は、一の的が早稲、二の的が中稲、三の的が晩稲のできをあらわしました。
流鏑馬神事
「馬場駈け」「流鏑馬開始の式」「馬場入りの儀」「垢離取り(こりとり)の儀」「流鏑馬始式」「騎射」の順に執り行われ、拝殿前の「終了報告」をもって終了となります。
「馬場駈け」は騎乗者がハッピ姿で裸馬に乗り、2頭で馬場を一往復します。
「流鏑馬開始の式」では騎乗者は正装に着替え騎乗し、神社拝殿前で神官によるお祓いを受けます。
「流鏑馬始式」では一の的を鳥居前の馬場中央に社殿を向けて立て、騎乗して的を左回りに3周した後に騎射し、それと同時に前方に待機したもう1頭(先馬)が馬場尻へ走り出し、後馬が続き、二の的、三の的を騎射します。
「騎射」は先馬の騎乗者が的に近づくと軍扇を揚げて露払いをし、続く後馬の騎乗者が3つの的を順に射ながら馬場を走り抜けます。先馬と後馬が交代して数回騎射を行い、終了となります。
的持ちは世襲制で、的はそれぞれ3家が代々担当しています。
騎乗者は毎年9月始めに神社氏子総代から依頼を受けると精進、潔斎に入ります。神事の1週間前には小田原市の御幸浜で心身を浄め、以後自ら料理を作り当日を向かえます。
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