2023年11月4日土曜日

11月3日南足柄市観光ボランティアと歩く 名瀑洒水の滝と河村城址公園そして室生神社の流鏑馬

 2023年11月4日土曜日

昨日は南足柄市観光ボランティア協会主催のウォーキングに参加。名瀑洒水の滝と河村城址そして室生神社の流鏑馬見学と楽しみが多いコースとなっている。

7:26 集合場所が大雄山線の大雄山駅のため、開成町の自宅から歩いて向かう。約40分の道のり。


7:53 大雄山駅に到着




9:00発の地蔵堂行きバスに苅野で下車。3連休の初日でもありバスは混雑、会の全員が乗れず。乗れなかった人は4台のタクシーで。普通の土日はガラガラなのに!

9:21バス停のそばにある阿弥陀堂。

創建年代等は不詳ながら、江戸期には、永禄11年(1568)に開山した泉蔵院持の堂宇として江戸時代後期の地誌新編相模國風土記稿に記載されています。


9:25 足柄隧道。 苅野と山北を結ぶトンネル。以前から在ったが関東大震災で崩落。このトンネルは苅野から山北へみかんを運ぶ重要な道であったため、地元の寄付で再建された。近年6億円をかけて拡張された。その際トンネルの出入り口2個所に壁画が6百万円で整備されたと。反対側は木々に覆われ隠れてしまっている。



9:36 アケビ

9:38 なかなかスリデとは読みずらい。トンネルの近くに神社があり、この辺りを通るたびに手を摺り摺して拝んだそうだ。

9:41 内山にある棚田の圃場整備がほぼ終わったとか

矢倉岳と整備された棚田


10:22 洒水の滝に向かう

10:29 滝の手前に最勝寺と天台宗の常実坊の2つの寺が並んで建っている。階段は最勝寺の階段
最勝寺の境内
同じ山北町内にある東寺真言宗の東光院の別院。水子供養のお地蔵さまが沢山並んでいる広いお寺

10:32 常実坊の関係者が不動明王を拝観させて頂けるとのことで滝の前に訪問。

洒水の滝傍らにあり滝堂とも呼ぶ龍王山誓源寺と号し天台宗なり。古くは平山原480にあり、明治21年頃平山の住人古瀬喜作氏の寄進である現在地に建立される。往昔、文覚上人百日の荒行をなせし時の御作不動明王を安置すと云う。これより洒水の滝不動尊と呼ぶようになり、霊験あらたかにして足柄地域はもとより遠く京浜地域までその信者多く集うようになる。明治6年時の大僧正・桜井敬徳、元老院議官・町田久成両氏の紹介により滋賀県大津の円城寺(三井寺)の山中より常実坊を遷座奉る。これより平山洒水の滝不動尊常実坊とよぶようになる。伝文覚上人御作不動明王像おん丈53cm、石刻座像、一部色彩色。素朴な厨子に鎮座し、前にせいたか、こんからの両童子控う。上人は平安末期から鎌倉初期の真言僧、俗名遠藤盛遠、元上西門の北面武士、誤って袈裟御前を斬り一念発起得度し熊野、高雄を初め山岳修験を重ね験力著しき修験者となった。神護寺再興について後白河上皇の忌避にふれ伊豆に流されている。この頃頼朝の知遇を得る。当地の修法はどの頃か詳らかざるもこの頃であろう。

11:01 洒水の滝に到着。まずは226段の階段を昇り展望デッキへ。


下流から一の滝69.3m、二ノ滝16m、三の滝29.7m、高さ計115mの日本100選の滝。




滝つぼの手前から


11:20 ランチを食べる予定の河村城址へ向かう途中の青空!少し紅葉が始まっているか?

11:29 酒匂川を渡る

11:30 トンビが!

11:30 手掘りの日向用水

11:39 丹沢ダムの工事の関係で水没する道祖伸を移したもの。

12:49 ランチ後河村城址を散策

現在の山北町周辺を支配していた河村氏が、山頂付近に砦のようなものを築いたのが河村城の始まりと言われています。南北朝時代の記録に「河村城」と書かれているので、このころには城があったと考えられます。

 では、今、浅間山に連なる丘陵の山頂にある河村城はいつの時代の城の姿を残しているのでしょうか。それは戦国時代、河村城が北条氏の城だった頃の姿です。

 しかし、河村城には小田原城のような、水を蓄えた大きな堀や石垣、天守閣はありません。それは、河村城が山城と呼ばれる城だからです。

 山城とは山のでこぼこした地形を活かして敵に攻められにくいようにつくられた城で、山頂付近には山を削ったり、土を盛ったりして、平らにした郭(くるわ)があちらこちらにあります。山城は戦いになった時だけ使われた城で、普段、人々は山のふもとの平らな土地で生活していました。河村城では南側のふもと(現在の岸地区)が生活の場所であったと考えられ、河村館跡(かわむらやかたあと)と呼ばれる遺跡が残っています。



北側の堀切


障子堀の堀切

相模湾方面


14:07 城址から下山途中にあった館跡

14:14 庚申塔

14:19 室生神社へ向かう途中にあった八幡神社


14:26 室生神社に到着。神社前の通りに砂をアスファルトの上に厚めにひいて馬が駆けられるようにした。

室生神社

社伝によれば、天正8年(1580)の草創とあるが、『新編相模国風土記稿』には、室生神社は始め中川にあったものを天正8年、岸に移転し、その後地主神として祭られている天神の社(現在地)に遷宮したとあります。現在、中川には大室生神社があります。

祭神は建御名方尊(たてみなかたのみこと)、日本武尊(やまとたけるのみこと)、菅原道真などのほかに、明治42年3月1日無格社27祭神を合祀しています。なお、同社には和鞍数背が保存されていますが、そのうち3背にはそれぞれ寛永12年(1635)、万治3年(1660)、寛文6年(1666)と記されており、県指定の附(つけたり)となっています。

山北町山北の宮地に所在する室生神社に伝わるもので、起源は源頼朝の石橋山挙兵の際、平家方に味方したため領地を没収され、斬刑に処されるところであった河村義秀(かわむらよしひで)が、鎌倉で行われた流鏑馬の妙技により刑を免ぜられ、旧領に復帰できたという故事(『新編相模国風土記稿』『吾妻鑑』)によるとされています。

 故事では鎌倉で流鏑馬が行われたのは建久元年(1190年)なので、義秀が旧領に復帰した翌年から「室生神社の流鏑馬」が始まったとすれば、現在まで約800年余り続いていることになります。

 農家の人々により受け継がれていた時期もあり、かつては的の当たり矢によって翌年の稲作を占う神事としても行われました。三つの的は、一の的が早稲、二の的が中稲、三の的が晩稲のできをあらわしました。

流鏑馬神事

「馬場駈け」「流鏑馬開始の式」「馬場入りの儀」「垢離取り(こりとり)の儀」「流鏑馬始式」「騎射」の順に執り行われ、拝殿前の「終了報告」をもって終了となります。

「馬場駈け」は騎乗者がハッピ姿で裸馬に乗り、2頭で馬場を一往復します。
「流鏑馬開始の式」では騎乗者は正装に着替え騎乗し、神社拝殿前で神官によるお祓いを受けます。

「流鏑馬始式」では一の的を鳥居前の馬場中央に社殿を向けて立て、騎乗して的を左回りに3周した後に騎射し、それと同時に前方に待機したもう1頭(先馬)が馬場尻へ走り出し、後馬が続き、二の的、三の的を騎射します。

 「騎射」は先馬の騎乗者が的に近づくと軍扇を揚げて露払いをし、続く後馬の騎乗者が3つの的を順に射ながら馬場を走り抜けます。先馬と後馬が交代して数回騎射を行い、終了となります。

的持ちは世襲制で、的はそれぞれ3家が代々担当しています。

騎乗者は毎年9月始めに神社氏子総代から依頼を受けると精進、潔斎に入ります。神事の1週間前には小田原市の御幸浜で心身を浄め、以後自ら料理を作り当日を向かえます。



的が三つだ

本殿

神主一行

準備開始


清めの塩をまいている

道路をお祓い

三の的の前で待つ!期待が膨れる!

二頭が走り、最初は先馬としえ前裁きを行い、二頭目が実際に射ります。これは前の馬!

間に合わず行ってしまった!!でも矢は的を射っている。


また元の場所に戻る。これを5回行います。
先馬

後馬

二回目は失敗、3回目は命中。


射る直前だ!

馬の表情を捉えてみた。何となく稽古のし過ぎで疲れた感じだった。


16:30 室生神社に到着後解散し、後は自由。16時の終了後歩いて開成町へ帰る。途中のあしがら屋敷でキウイを購入。


あしがら屋敷。

17:00過ぎに自宅に到着。今日も一日快晴。三連チャンで疲れたが満ち足りた一日であった。

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