2022年11月3日木曜日

11月2日秦野観光ボランティアの会主催のウォーキング 大日堂仏像拝観ハイキング

 2022年11月3日木曜日9:00 晴れ

昨日は、秦野市観光ボランティアの会主催の企画、大日堂仏像拝観ハイキングに参加。

天気は上々!暑くなりそうだ。

 8:01 小田急線開成駅ホームにて


 

9:52 神奈川中央交通のバスにて蓑毛着。


 
蓑毛越えから大山、またはヤビツ峠へ向かう登山客はここから出発

大日堂の案内

大日堂は宝蓮寺(大日堂諸堂を管理しているお寺)縁起によると奈良時代の「天平14年(742年)聖武天皇勅願所として大日堂を建立し」とあり、「翌15年行基や良弁僧正の努力で蓑毛大日堂に五智如来が造立された」とあります。 

その当時の様子は「貴賎男女の参詣は日夜市をなした。」とあり、威容を誇る大日堂に参集する情景が描写されています。 その後は中村兵吉氏が著書『相模の国府と国分寺』の中で、相模の国分寺は最初海老名国分にあったが、奈良時代の平地仏教が平安時代の山岳仏教に変移すると、元慶2年(878年)頃海老名より大住郡の蓑毛に移り、大住郡の国分寺で相模の国の政治の祈祷や祭式が行われたと推論されます。

大日堂は平安時代末期より南北朝時代はさびれ、室町時代の第12代住持の一輪満(1428年)の頃まで無住持の状態が続いていたといわれているが、正応2年(1288年)鎌倉時代後期に高峰顕日(こうほうけんにち-後嵯峨天皇の皇子である仏国国師)が近隣のいくつかの寺院を統合して宝蓮寺(当時は「薬音寺」と名付けられた)を開山した頃は、高峰顕日の徳を慕って参詣往来の人多くして、市が立ったと古文書に伝えがあります。

また、室町初頭の南北朝時代には臨済宗の禅僧・抜隊得勝(ばっすい・とくしょう、1327~1387年)が大日堂に道場を設け、国中より300人を超える修行僧が集まったと云われています。抜隊得勝は地元、足柄上郡中井町の生まれで、後、山梨県甲州市塩山に向嶽庵を築き、臨済宗向嶽寺派の祖となった人です。


江戸時代に入ると、寛文9年(1669年)信仰厚い揖斐氏が宝蓮寺に巨額の寄進をし、諸所がことごとく修造されたとありますが、現在の大日堂は享保14年(1729年)に再建されたことが棟札で確認されています。
揖斐氏の功績により、揖斐与右衛門の亡き令室の法名・迎接院宝蓮信女を採り、「薬音寺」を「宝蓮寺」と改称したと由緒が明記しています。
仁王門の歴史については文献が見当たりませんが、現在の仁王門は様式などからは江戸時代末期のものだと推測されています。

蓑毛大日堂(秦野市蓑毛674)の境内にある閻魔堂で「閻魔詣(えんまもうで)」を開催する。 閻魔詣は「地獄の釜の蓋が開く」と昔から言われている8月16日に行われる行事。「閻魔様が地獄を留守にするこの日に参拝すると無病息災・延命長寿の功徳がある」とされ、閻魔堂を持つ蓑毛大日堂に昔は多くの参拝者が訪れていた。この風習は一時途切れていたが、はだの大日堂保存会(旧秦野みのげ文化の会)が2014年に復活させた。 

次のHPを参考にして下さい。 https://yamap.com/activities/10173519/article

 

9:57 仁王門

平安時代後期の作

大日堂仁王門仁王像

大日堂内撮影禁止でした。

大日堂内の木造大日如来坐像(HPより)

大日如来坐像 

 10:54 大日堂の前にある宝蓮寺(大日堂諸堂を管理しているお寺)

大日堂前の仁王門

10:59 蓑毛バス停から市内に向かって下山開始。バス停の標高318m。

この道の両サイドには御師(おし)の家が続く。 

御師とは、特定の社寺に所属して、その社寺へ参詣者、信者の為に祈祷、案内をし、参拝・宿泊などの世話をする神職のことである。 特に伊勢神宮のものは「おんし」と読んだ。 御師は街道沿いに集住し、御師町を形成する。

このあたりの先祖は、源平の戦いで平氏方に付いた大山寺の僧兵が源氏に追われて無職になったのを機に御師となっとの説明。

相模湾がみえた。

 

11:50 ランチは緑水庵。ここにある旧芦川家住宅の内部



葉たばこ
旧芦川住宅



12:15 大山鳥居

鳥居は道の真ん中にある

12:18 才戸の道標   馬の便はここまで、ここから先は徒歩で大山詣。
近くには5つの碑があった。道路工事の際に集められたもの。

珍しい五角形の塔。神社が今の本殿の形になる前はこういった塔に神様が降りて祭りを

行ったとか。


道端にある菅原社
右側の山が高取山 標高556m

丹沢の山々

12:49 円通寺

秦野市寺山にある園通寺は曹洞宗のお寺で福聚山園通寺という。創建年代は分からなかったが、江戸時代には寺山村にある寺として存在していたのであろう。あるいは、寺山村の名は園通寺に起因して付けられたのであれば、それ以前に創建年代が遡るであろう。
 寺山地区にはまわり地蔵があり、今では圓通寺の本堂に安置されているという。このまわり地蔵は、宝暦13年(1763年)、伊勢原の比々多神社近くにある保国寺の住職が、百体の小身地蔵を彫り、近隣の村に納めたのが始まりであるという。子どもの無事成長を願うこと、そして幼くして逝った者の霊の供養を、それぞれの家庭でするための地蔵であるとされている。寺山のまわり地蔵は寺山清水の名主家から四代前の頃に回り始めたという。

木造十一面観音菩薩(もくぞうじゅういちめんかんのんぼさつ)立像(りゅうぞう)の概要


  • 像高120.7センチメートル
  • 寄木造(よせぎづくり)(注1) 玉眼(ぎょくがん)(注2)
  • 推定製作年代:南北朝期(平成3年解体修理実施)

 十一面観音は頭部に十一の顔を持つ変化観音の一つで、変化観音の中では最も多くの遺例を持ちます。

 頭部耳前で前後に矧ぎ首で体部に挿しており、体部の主要部は一材で彫り出し、背中に内刳り(うちぐり)(注3)を施し背板を当てています。両腕を肩、肘、手首で矧ぎ、両足先、頭上面等も別材で作られています。
 衣文表現はやや硬いものの、深浅を使い分け、複雑な襞(ひだ)(注4)を手馴れた彫技でこなしています。やや平板化の目立つ肉取りや、各部の線の細い造形から南北朝期に作られたと考えられています。

語句の意味

(注1) 寄木造(よせぎづくり) 木彫像の主要部分を複数の材からつくる技法。
(注2) 玉眼(ぎょくがん) 水晶でつくられた眼。
(注3) 内刳り(うちぐり) 木造彫刻で、乾燥によるひび割れを防ぐために内部をくりぬくこと。
(注4) 襞(ひだ) 衣服などにつけられた細長い折り目。

 

概要

  • 像高120.7センチメートル
  • 寄木造(よせぎづくり)(注1) 玉眼(ぎょくがん)(注2)
  • 推定製作年代:南北朝期(平成3年解体修理実施)

 十一面観音は頭部に十一の顔を持つ変化観音の一つで、変化観音の中では最も多くの遺例を持ちます。

 頭部耳前で前後に矧ぎ首で体部に挿しており、体部の主要部は一材で彫り出し、背中に内刳り(うちぐり)(注3)を施し背板を当てています。両腕を肩、肘、手首で矧ぎ、両足先、頭上面等も別材で作られています。
 衣文表現はやや硬いものの、深浅を使い分け、複雑な襞(ひだ)(注4)を手馴れた彫技でこなしています。やや平板化の目立つ肉取りや、各部の線の細い造形から南北朝期に作られたと考えられています。

語句の意味

(注1) 寄木造(よせぎづくり) 木彫像の主要部分を複数の材からつくる技法。
(注2) 玉眼(ぎょくがん) 水晶でつくられた眼。
(注3) 内刳り(うちぐり) 木造彫刻で、乾燥によるひび割れを防ぐために内部をくりぬくこと。
(注4) 襞(ひだ) 衣服などにつけられた細長い折り目。

 

概要

  • 像高120.7センチメートル
  • 寄木造(よせぎづくり)(注1) 玉眼(ぎょくがん)(注2)
  • 推定製作年代:南北朝期(平成3年解体修理実施)

 十一面観音は頭部に十一の顔を持つ変化観音の一つで、変化観音の中では最も多くの遺例を持ちます。

 頭部耳前で前後に矧ぎ首で体部に挿しており、体部の主要部は一材で彫り出し、背中に内刳り(うちぐり)(注3)を施し背板を当てています。両腕を肩、肘、手首で矧ぎ、両足先、頭上面等も別材で作られています。
 衣文表現はやや硬いものの、深浅を使い分け、複雑な襞(ひだ)(注4)を手馴れた彫技でこなしています。やや平板化の目立つ肉取りや、各部の線の細い造形から南北朝期に作られたと考えられています。

語句の意味

(注1) 寄木造(よせぎづくり) 木彫像の主要部分を複数の材からつくる技法。
(注2) 玉眼(ぎょくがん) 水晶でつくられた眼。
(注3) 内刳り(うちぐり) 木造彫刻で、乾燥によるひび割れを防ぐために内部をくりぬくこと。
(注4) 襞(ひだ) 衣服などにつけられた細長い折り目。


隣には鹿島神社が隣接。お寺から拝観し神社へ向かう


山門


本堂

隣接する鹿島神社へ

「鹿島神社
祭神 武甕槌之命 
境内社 厄神社 金毘羅社 子神社
由緒沿革 勧請年代は不明だが、鹿島神宮より勧請した、神体は木像二軀(実は乾漆造り)銅像一軀、平安末期の作と伝えられている。寺山村は往時寺社多く、慶安の頃三代将軍家光御参拝あり、此の当時より寺山村の総鎮守であった。

分祠を丹沢山守護として設立し、貞永元年(一二三二)より年々鹿島神社の焼印木札を奉安した。それより後分祠所在の地を札掛といい、後、山廻り役人巡視の証として鹿島分祠に札を掛けるようになった。焼札奉安は明治の初めまで続いた。慶安二年(一六四九)八月御朱印を賜わり、将軍世継ごとに御朱印状が送られている。明治の初期より崇敬者が増大し、それらの寄進による絵馬額は相模、武蔵、駿河、伊豆におよびその数は数百枚に達した。(現在六十有余枚保存) 明治六年七月三十日鹿島神社と改称し村社に列せられ、大正二年八月幣帛供進の神社に指定された。昭和四十三年本殿弊殿拝殿等大改修し参道も整備され、昭和四十五年石造大鳥居社号柱も奉納され、現在の神域となった。




13:21 波多野城跡 城跡の手前にある学校の敷地内のイチョウ。

右側の2本の電波塔が並ぶところより左の塔があるところが浅間山でその左が大山

波多野城跡。しかしながら発掘調査をしても何も出てこなかったと。そのため市としては

城跡とはいっていないそうだ。

13:41 金目川にかかる橋から見た景色。

昭和の時代には、橋が架かる前は森の手前から川に降りて対岸に渡っていたそうだ。


右に富士山が見えるはずだが?
13:49 最後の目的地ふるさと公園の遠景
14:08 ふるさと公園には源実朝の首塚がある
首塚


公園で解散。お疲れ様でした。14:29発のバスで秦野駅に向かう。

バス停は反対の方向。


 

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