2022年11月6日日曜日

11月5日南足柄市観光ボランティアガイドの会主催ウォーリング 矢倉沢往還 地蔵堂から関本へ

 2022年11月6日日曜日8:44 晴れ

昨日は、南足柄市観光ボランティアガイド協会主催のウォーキングに参加。テーマは

【矢倉沢往還】地蔵堂から関本へ。約9キロの下り坂を歩いた。


 

集合は10:20と遅めのスタート。開成町の自宅から集合地点の大雄山線大雄山駅まで

徒歩で約40分歩いた。

9:13 9時に家を出てや倉沢往還を大雄山を目指して歩く。

午前中は曇りの予報。左の山が矢倉岳(標高870m)、富士山はその後ろにあるが

今日は曇りで見えない。

大雄山駅

10:59 地蔵堂到着

当初10:25発のバスに乗る予定であったが、時刻表の変更で10:40へ変行。

標高415m。

現在はお堂だけですが、かつては当地には誓広寺という寺院があり、その地蔵堂だけが残ったと伝わります。江戸時代に記された「新編相模風土記稿」には昔、駿河国の仁杉(御殿場市)に杉の大木があり、その霊木で3体の地蔵を彫ったとあります。この1本3体の地蔵を板橋(小田原市)、竹の下(静岡県小山町)、そしてここ地蔵堂に祀ったと書かれています。

板橋と竹の下のものは既にありません。

3か所とも箱根、足柄の山越えの登山口であり山を越える旅人の安全を願うために祀られたのでしょうか。地蔵は鎌倉時代から室町時代に作られたもので神奈川県の重要文化財に指定され堂の裏の収蔵庫に大切に保管されています。この様な貴重な地蔵が山間の20数世帯の地区によって守られてきたことに信仰の尊さを感じます。

11:30 地蔵堂を出て紅葉のきれいな矢倉岳を見る

橋に川の名前があるが、「内川」「うちかわ」と表示されている。入口が漢字で

ひらがなが出口との説明されていた。橋にそもそも入口と出口があるのかよく分からない

がそうらしい。

因みに、内川にはハマグリなどの化石がでるため、大昔はここが海だったことが分かると。

レンズによると有毒のマムシグサ

往還のそばにあった道祖神か
12:08 雲が晴れ大山が遠望できる。
レンズによるとヒメツルソバ

12:27 矢倉沢関所跡

ここに関所があった。

13:03 ランチは矢倉沢の公民館広場で。広場の横にはザル菊が。



公民館の前にあった説明書き

地層の推移




矢倉沢礫層

13:30 途中にあった茶畑。この茶畑から取れたお茶は金賞を受賞しており土壌など

の環境がよいらしい。先に見える山は金時山。

名前は忘れたがかなり大きな果物。外来種らしい。
レンズによるとこれも有毒のマムシグサ

14:13 足柄神社に到着。この道は馬場だそうだ。

足柄神社略誌
 縁起 伝説としては、日本武尊御東征の砌、足柄村にしばし御滞在なされ仮宮安在所を設け慰労後、尚明神嶽から足柄山を越えなむとするも樹木草生い繁り遂に進路に御迷いの所、白鹿眼前に現れ、其の後に従い足柄峠に難なく進むことが出来、此処に於て白鹿消え給うと、これ神霊の御導きならむと待僕を同所に三年間滞在させ、神霊を齋祀されたと云はれている 。
 天望するに南海にひらけし海を逆波と(後の相模)呼称された事や、足柄明神に祈請して、新羅三郎義光が秘曲大食、入調の二曲を伝授され奏した事はあまりにも明晰である。尚此の土地に土着せし瀬戸家の系図には、家相鬼門除の神として崇むと記されてをり(天慶三年)、種々な信仰対照として、崇敬されて来ている。又寛保年間には、水下十三ケ村、旧岡本村和田地区が大洪水に見舞はれし時、幕府及び小田原藩が地元民と協力、気持を直結し明神に再三祈請して難に打勝つ事が出来た事も地誌に見え、かつて巡洋艦「足柄」に霊代を勧請名声をはせた事もあった。現在も諸生産の守護神として郷土一円地方の根強い信仰と崇敬の的となっている。近時、富士写真フィルム会社にも分霊奉斎、生産増進の守護神として創業以来、戦災の外数へる災害なく、一に崇敬厚き対象となっている等、時代の変遷にも一環極みなき郷土との由縁をかちとらえられている事であり、諸祭典と共に諸事の教義も帯び今後の斯界に対処されている。
 祭神 瓊々許尊 日本武尊 瓊々許尊は天照大神の孫、日本武尊は、景行天皇の第一皇子に当らせられ、御二方の事蹟は記紀並びに史書で明晰のように日本文化文明史、社会発展の基礎的役割をお示しになった事は違うべきもないことである。
 御神体は木造座、丈三尺七寸、束帯像である。(約二百五、六十年前の作)
 創立 天慶三年朱雀天皇の御代、明神獄に奉斎され(約千十六年前)しが年次を経るに従ひ足柄峠、矢倉獄に遷座、現鎮座地は、鎌倉時代末期矢倉獄より遷座されたと言はれている。現在も、矢倉沢講・狩講ともに存在し毎年旧蹟跡へ一回かかさず参詣されている。
 旧社格 明治六年七月三十日、郷社と定められ、明治四十年四月三十日、神饌幣帛料供進の神社に指定、宗教法人令制定後、宗教法人「足柄神社」として発足。現在に至っている。
 社号 臼井豊後守藤原道孝、旧に復し神主として寛延三年正月廿七日、神祗管領から受けた令状によれば苅野岩村大明神とあり其の他の古文書等大明神とあり、明治維新後矢倉神社、昭和十四年以降、足柄神社と改称、今日に至る。
 祭典由縁 今より百二十三年程前迄は、正月十八日、神輿を区内の福泉一之御前、二之御前社に移し祈祷が行はれていたが、地理的関係から婦女子、老婦にては例祭日にも参拝を事欠く事多く参拝の宿志を全う致し度き祈願から各村協議、連署の上当時の懸令に祭礼日の願書を提出、三月三日、四日両日に変更願書が許可されてより氏子中を上、中、下の三地区に分、現在の通り三番制の例祭神輿渡御を奉供するようになった。現在は恒例として毎月一日・十五日の月並祭・国祭日の諸祭・三月三、四日の例祭、神輿渡御・十月九日の秋祭走競馬を恒例としている。
 社殿 元禄十六年十一月廿二日、大震災により焼失、安永九年、再建、現在の御社殿は慶応二年三月の建立である。本殿、幣殿拝殿は権現造にして総欅造現営膳費は、総計百八十五円五十銭一厘四毛である。又本殿、拝殿共彫刻類は其の粹を放ちをり、総建坪は二十四坪である。
 工作物 社前鳥居は石造、高二間、巾二間にして安永九年、水の下(現南足柄町福澤地区)十三ケ村の寄附による。
 大門鳥居は以前木造で大明神の額を挙ていたが明治十年、石造に改造高一丈五尺、巾一丈二尺である。
 石燈篭社前にあるものは明治廿六年の建立であるが、大門先の一基は文化年の作である。
 手洗鉢は和田ケ原地先の奉献にして天保十一年の作。
 石造玉垣は大正十二年竣工、延十八間、総計費は六百十九円六十九銭。
 境内地 四百八十六坪、附属地一二〇坪
 境外地 末社として市杵島比売命を祀る。大門先の池中にあり長十三間、横七間、池中より滔々として尽きる事なき清水を湧き出さしている。
 鉄砲馬場 特殊神事として関東武士の名声を放った鎌倉年代より徳川中期に至る迄、郷土一円の流鏑馬行事を催したるも、中期より山北室生神社に遷ってより鉄砲馬場に変り明治四年、復活せしも中絶、現在は馬場として当時を偲ばせる異名を残すのみになったが、十月九日、秋祭典に際し走競馬を行っている。
 名木 社殿の前面左に一本の椎あり、優に一千有余年の樹令を保ち、真に稀に見る古木なり。
 大杉は本社殿横面にあり境内に亭々として樹つ。
 燈篭松は大門に通じる表参道にあり五百年以上経しと言はれてをり、昔は両側に杉をまじえ亭々と樹しが長年風害のため両立林も倒れ現二本を面影に留めるのみ。
 神職 臼井は京都吉田家の配下として、何時現地にとどまったかは、元禄年間家が焼失したので不明なりしが、先祖を宣命司と言い代々世襲として代々奉仕、寛延三年から七代前は、神職なく、弘西寺の弘済寺住職が尼僧を住ませ管理させ、旧に復したのは、寛延三年正月からである(旧に復してより現九代目)
 奉賛会 昭和廿五年、当神社神徳の宣揚を計り神恩奉賽の為崇敬者会を設立、会員は年四十円の講金を納め又初穂料を以て、此の会を維持運営している。教化としては神社の諸行事に協賛しつつ人倫の道を興し見極め、社会福祉に貢献することを以て目的としている。
 以上










14:27 白地蔵尊

のあたりから静岡県足柄駅へと向かう道は、現在では県道78号線と呼ばれているが、かつては足柄峠を越える東海道の旧街道であり、足柄街道や矢倉沢往還と呼ばれていた。

その為に道沿いには古い石仏や寺社が今なお多く残され、山に近づくにつれて旧街道のたたずまいが深まり、この道が古くから旅人で賑わっていたことを今に伝えているのである。

 江戸後期に編纂された地域史料である「新編相模国風土紀稿」で調べてみると、足柄上郡 苅野庄 弘西寺村の項にて「地蔵堂」の名で「化粧地蔵と唱ふ。誓願する者。必 白粉或 胡粉をもて。佛面を塗抹するが故。この名ありと云。甲州道の側にあり。堂前の坂を化粧坂と云。」と紹介されているのである。

この地蔵尊は万治2年(1659年)の検地帳にはすでに紹介されているという事で、少なくとも江戸時代4代将軍、徳川家綱公のころにはこのような信仰を得ていたようである。

このように石仏に化粧をさせるという事例は神奈川県では珍しく、ほかに藤沢市の「おしゃれ地蔵尊」が思い起こさよう。

先述の「新編相模国風土紀稿」で「化粧地蔵」と紹介されているこの地蔵尊は、現在では白地蔵尊と呼ばれており、石仏本体の座高は約80センチ、礫岩で作られた祠の高さは約115センチある。

昔から、特に安産と授乳に霊験あらたかであるとされ、布でつくった乳房や赤旗をあげて願をかけ、その願いがかなった暁にはお礼として顔面に「うどん粉」を塗りつける習慣が今なお続いている。



14:34 日蓮宗の碑

14:41 最後の弘行寺(ぐぎょうじ)に到着

弘行寺は、日蓮上人が身延山から池上へ向かう途次、当地の下田五郎左衛門邸に投宿、その邸を一寺とし、地名年号に因んで関本山弘行寺と号したといいます。

境内には徳川家康側室「お萬の方(養珠院殿)」の母堂性殊院殿の墓があります。



『新編相模國風土記稿』に「養珠院殿母堂墓、五輪塔なり、高二尺八寸(八五センチ)法名性殊院妙用日理と號す。天正十九年(一五九一)八月七日死、按ずるに養珠院殿は紀伊大納言頼宣卿の母公なり、當寺に葬せし来由詳ならず」と記されている。養珠院殿は、「お萬の方」といい正木頼忠の娘、蔭山氏廣の養女で蔭山殿と称し徳川家康側室となられた方である。
甲州身延に往復された途次に日蓮上人御一宿の霊場である当寺をたずね、亡母の冥福のために遺物を埋葬されたのか、母堂がここで亡くなられたのを供養されたのか、この性殊院の墓と伝えられる五輪塔がある。
寺宝とされている桃山時代の金蒔絵の碁盤は、この関係で蔭山氏廣から寄進されたものといわれている。(南足柄市教育委員会掲示より)

ここで解散し、徒歩で開成の自宅に戻る。約40分。



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