2022年10月5日
4日火曜日は秦野市観光ボランティア協会主催のウォーキング。
市内の近代建築群である出桁造りの建物や看板建築の数々を見て回る。看板建築の代表例
である五十嵐商店では3階まで内部を見学させていただける貴重な企画だ。
Wikpediaの看板建築を調べると次の記述が。
出桁建築
看板建築以前の東京の店舗併用住宅である町屋には、切妻屋根の平入2階建で1階上部に軒を大きく前面に張り出した「出桁造」と、それを防火のために土で包んだ「塗屋造」、「蔵造」の3種類があった。伝統形式の街並みは1923年(大正12年)の関東大震災によって焼失してしまった。
看板建築とは
鉄筋コンクリート造で建てるだけの資力がない中小規模クラスの商店によって関東大震災後に数多く建設された、かつての伝統的な町屋に代わる洋風の外観を持った店舗併用の都市型住居である。
看板建築の前面は軒の出ない垂直な壁面になっているが、これには1919年(大正8年)に制定された市街地建築物法の影響がある。同法において、建物は敷地の境界線から突出してはならないこととされていた。そのため、区画整理によって狭くなった敷地を有効活用するには、軒のぶんだけ道路境界から後退しなければならない出桁造は不利だった。[11]
また市街地建築物法では、準防火という考え方から木造建築の外壁をモルタル、金属板、タイルといった不燃性の材質で覆うことを義務づけていた。8:36 秦野駅から徒歩で出発
まずは駅前の水無川沿いに少し下る。
出桁造りの豆峰。
リニューアル後の清水寅吉商店
今となってはめずらしいホーロー製の看板
出桁造りの製茶立花屋
出桁建築の特色
看板建築の五十嵐商店。モルタルの木造建築。
側面はアールデコ風。内部の様子
床の間
天井
引き戸
床の間
倉庫の2階
内部構造 音響効果が優れており演奏会も開くとのこと。
軒下
倉庫全景
看板建築の枡屋陶器店。今は別の会社が入っている。
奥は和風
枡屋の屋号と壁の装飾
建て直しをされた秦野聖ルカ教会(英国教会)
看板建築の保全堂薬局
後ろの和風建築が母屋出桁造りの八文字屋。シャッターで分かり図らい
本町四つ角交差点はかつての中心地。昔は十日市場で市が立っていた。
今の本町四つ角交差点。左右が矢倉沢往還。先が富士道、後ろが平塚道。出桁造りであったリフォームされた普川家
昔の秦野市役所の門扉跡出桁造り
元専売公社工場。出桁造り
ガソリンスタンドの事務所の左入り口の中に鳥居がある。
古峰神社 関東大震災でこの手前まで燃えたとのこと。
今も現役の石田家塩蔵
大用寺は、神奈川県秦野市の弘法山のほど近くにあり、天正十年(1582年)真翁宗達大和尚が開山した、と記録に残っています。
全国でも少ない珍しい鐘楼門をくぐると、目の前には大きな百日紅の木と本堂があります。
この百日紅はお盆の時期には鮮やかなピンクの花を咲かせ、秦野市内の観光スポットにもなっています。
茶筅塚
出桁造り
石田邸りっぱな門
乳牛と書いて「ちゅうし」と読みます。読み方の語源は不明ですが牛を飼っていたことは
確かです。
(参考)付近には、醍醐みち、曽屋みち、があります。
「醍醐(だいご)←醍醐味の語源」とは牛乳を精製して作った今のクリームのようなもので、「乳牛(ちゅうし)」は乳牛を飼っているところ。醍醐道はその牛乳を精製したものを賞味できる道。そして曽屋は「曽(そ)」つまり牛乳を煮詰めて作る食品、今のチーズのようなものを生産する家のあるところと解釈されています。
曽根神社
おおよそ1,190年あまり前、天長年間の御鎮座とされております。
貴重な湧水地であったため、「水を司る神様」をおまつりしたことが創始であります。
『相模国風土記』によると、「井之明神社祭神詳らかならず、神体石二個を置き、例祭九月九日、天正十九年(およそ420年前)社領三石五斗の御朱印を賜る。老杉(円一丈二尺余り)を御神木とす。幣殿・拝殿・神楽殿建てり。末社、稲荷・浅間・毘沙門・三峰」とあります。
境内にある御神水
くずは峡谷
秦野盆地のほぼ中央を流れる葛葉川と豊かな緑に囲まれる峡谷です。
周辺の葛葉緑地は1987年(昭和62年)に「かながわのナショナルトラスト第1号」に認定されました。
平成7年6月には秦野市制40周年に合わせて峡谷に「くずはのつり橋」が架けられました。
平成10年4月には、「くずはの家」が開設され、自然観察や講習会など、四季を通じて自然に親しみ、自然を調べ、自然を守る市民活動の拠点となっています。
今から約5万年前、渋沢断層の活動により秦野盆地の地形が顕著になった頃、葛葉川を横切る秦野断層も活動し、下流側が高く隆起し流れがゆるやかになりました。
ゆるやかになった川は曲がりくねった流れを作り、蛇行したままもとの流れの傾きになるまで下へ下へと川床を削り、下流に行くほど高い崖を持つ葛葉峡谷が生まれました。(図1参照)秦野盆地の大地は、丹沢山地からの堆積物でできた扇状地に、箱根火山と富士火山の他西からの風に乗ってやってくる様々な場所からの火山灰が積もった関東ローム層でできています。
葛葉峡谷は、自然の状態で秦野盆地の断面を見ることができる崖(露頭)が残る数少ない場所で、その中でも代表的な露頭がけやきの道の渡渉石近くにあります。
ここで見られるのは一番下の12~13万年前の葛葉台礫層と、約5m上にある5.5万年前の岩倉礫層の間にあるローム層で、茶色の地層の中に箱根火山の大規模な噴火により飛ばされてきた、軽石と火山灰の混じった何層ものクリーム色の層(テフラ)を見ることができます。地層の崖は定期的に整備し、どの層かわかるようにプレートを付けてあります。ぜひ実際の露頭を観察してみてください
https://www.city.hadano.kanagawa.jp/www/contents/1617069768905/simple/chiso.pdf
くずは峡谷を後に駅方面に戻ります。
するとタウンニュースで有名な自宅・カフェ兼美術館
金比羅神社水神石祠 右奥付近に水が湧いているらしい
城光院
曽根水道記念公園
乳牛(ちゅうし)通りの道標
天徳寺
天台宗医王山天徳寺(いおうざんてんとくじ)(秦野市文京町6の22/安居院昭道(あぐいしょうどう)住職・26世)にこのほど「坂東三十三観音石仏」が完成。
この「坂東三十三観音石仏」は、同寺に保存されている江戸時代造立の「観音像群」の歴史を受け継ぎ新調されたもの。観音像群の石像は風化が進んでおり、安居院住職は「観音像群が完全に風化してしまう前に、新たな石仏を作り直したい」と考えていたという。
同寺の観音像群は江戸時代中期に観音霊場巡りが流行した際、地域の人々によって建てられたもの。坂東三十三観音は西国巡礼にならい鎌倉時代初期に開設されたもので、坂東三十三観音の石像があった同寺は、遠くまで札所巡りに行けない人の参拝場所として、地域から親しまれていた。
旧「坂東三十三観音」新「坂東三十三観音」
乳牛通り沿いにある和菓子屋 どら焼きが美味しいらしい。
その側にある豆腐屋。ここも有名らしい。
八幡神社
13:32 秦野駅に到着
結構暑い日であったが歩きがいがあるコースであった。
0 件のコメント:
コメントを投稿