2022年10月21日金曜日

10月20日秦野市観光ボランティアと歩く ~ 軽便鉄道廃線ウォーク

 2022年10月21日

昨日は、秦野市観光ボランティアの会主催のウォーキングに参加。

テーマは、軽便鉄道廃線ウォーク。廃線跡地を秦野から二宮まで歩く約11キロを歩く

企画だ。

まず軽便鉄道とは(Wikpediaから引用)

秦野で産出されていた葉タバコ東海道線二宮まで輸送することを主目的として建設され、大正期には賑わいを見せたが、1927年昭和2年)に小田原急行鉄道(現在の小田急小田原線)が開通すると衰退し、旅客営業休止、路線休止を経て1937年(昭和12年)に廃止された。 

歴史

  • 1906年明治39年)8月1日[2] 発起人を集め湘南馬車鉄道として秦野 - 二宮間開業 (9.0km)。開業当初は馬車鉄道であった。当時の発起人は秦野市、二宮町、中井町など沿線の有力者をもって行われた。なお、発起人に名を連ねた人物には国会議員の伊達時や慶應義塾出身の山口(旧姓 高橋)喜十郎など福沢諭吉の知己を直接得ている人物が存在する。また、伊達時および山口喜十郎は伊勢原市に存在した自由民権運動の団体「湘南社」に深くかかわっていた。
  • 1913年(大正2年)
    • 2月1日 利用者増加に伴い蒸気機関車に変更[3]
    • 2月24日 湘南軽便鉄道[4]に改称[3]
  • 1918年(大正7年) 経営難により一時休止、その後経営移管され湘南軌道となる
  • 1923年(大正12年)9月1日 関東大震災により被災
  • 1924年(大正13年)3月 秦野駅(初代)を台町駅に改称、秦野(2代目) - 台町間開業 (1.0km)、全通
  • 1927年(昭和2年)4月1日 小田原急行鉄道開通
  • 1929年(昭和4年)8月14日 乗合自動車運行開始[5][6]
  • 1933年(昭和8年) 旅客営業を休止、貨物営業のみとなる
  • 1935年(昭和10年)10月9日 秦野 - 二宮間全線営業休止
  • 1937年(昭和12年)8月25日 秦野 - 二宮間全線廃止 (-10.0km)[7]           

    秦野駅* - 台町駅 - 大竹駅 - 上井ノ口駅 - 下井ノ口駅 - 一色駅 - 中里駅 - 二宮駅

 小田急線や乗合自動車に貨物や乗客を奪われ衰退し31年で廃線となった。

 8:04 小田急線開成駅ホームからのみた富士山。今日は一日快晴の予報だ。

 

今日の予定表

 

秦野駅


 

8:42 秦野駅出発

8:57 湘南軌道の秦野駅に到着。

湘南軌道の秦野駅のあった場所は、専売公社農場(現イオン秦野店)附近で、現在の小田急秦野駅からは離れている。

9:17 龍門寺到着

龍門寺は、1651年〈天正19〉に徳川家康から寺領5石(こく)の朱印を受けている。その墓域(ぼいき)には、1848年〈嘉永元〉に、54歳で亡くなった岡田正司の筆子塚がある。越後藩士だったが、浪人となって曽屋村に住み、妙相寺で寺子屋を開いた。門人200余人が師匠のために建てた墓である。また、元町に塾を開いた亀井愛水〈溝呂木守道〉は、1869年〈明治2〉に龍門寺に塾を移し、修身館と称した。1873年〈明治6〉に修身館は公学と認められ、第154番小学の初代校長となった。本町小学校の前身となった修身館は、1877年〈明治10〉に火災で焼失してしまった。当時の生徒数は、男子185名、女子82名と伝えられている。龍門寺には、曽屋水道の功労者である梶山良助の墓もある。


9:33 命徳寺

江戸時代初期に建築された茅葺き屋根の古い山門のあるお寺。

山門は薬医門という形式で、横から見ると、垂木が中心より前方にあるため、屋根全体が前の方に片寄っています。

秦野に残る古い建築物の一つで、平成15年に秦野市の重要文化財に指定されました。命徳寺本堂は、1651年(慶安4年)頃に再建されたという記録はありますが、当初のものは内陣まわりに残っているだけということです。

山門の薬医門


https://www.walkigram.net/komoro/yakui-gate.png

薬医門は、門の基本枠組みをなす冠木と鏡柱の枠に控柱と横木を添えて強度を強めた門の様式です。上の図の左側の2つが薬医門の基本型です。実際には、冠木門には装飾や偏額をつけるための横木や梁を付設する場合が多いようです。
  2つの図は真横から見た形状です。この図で薬医門の左右のいずれ側が外を向くかは、つねに決まっているわけではないようですが、通常は右がわが外を向き正面側となるようです。冠木と鏡柱を外に見せるわけです。
  というのは、冠木門には、防衛上の観点から強度の高い冠木門と鏡柱を外に向けたり、城や寺院などの建築施設の威厳や権威を高めるために、木彫などの装飾を施したりする場合が多いからです。また、控柱は補助的なものなので、内側に置いて目立たなくするという配慮もあります。
  小諸では成就寺の山門がそういう配置になっています。そこでは、迫力たっぷりの荘麗な木彫が冠木を飾っています。
  また、本陣問屋場の薬医門でも冠木が外を向くようになっています。

  ところで、建築物としての強度を大きくし重厚性を増すために、控柱を冠木・鏡柱の前後両側に設置する場合もあります。このような薬医門を城郭に設ける場合には、控柱を鏡柱と同じくらいに太くして防衛上の要請を満たす必要があります。






9:43 室川からみた富士山
9:48養泉院の前を軌道が通っていた。

養泉院から二宮に向かう坂は急坂であったため当時の蒸気機関車では上れず、乗っていた人は降りて貨車を押したとか。また途中には茶店まであった土地の人が話していたと。

向こうに見えるのが小田急線

10:48 中井町井ノ口にある不動明王の道標 右側が大山道でここに軌道があり

上井ノ口駅があった。

10:55 箕笠神社

蓑笠神社は秦野市から二宮町に抜ける県道711号線の旧道沿いにある神社で、蓑笠という変わった名称は、祭神の素戔鳴命が旅の途中、この地に蓑笠を置いていったからといわれているそうです。
  南側より長い参道が続いており、両側にはケヤキの大木が立ち並んでいます。参道入り口に立つケヤキと、参道最奥の本樹が特に大きそうです。参道奥の拝殿前に立つケヤキが「蓑笠神社のケヤキ」と呼ばれるもので、上部から根元に通じる大きな空洞がありますが、古い時代の落雷の影響だと伝えられています。
  そのために樹高も樹冠も小さめなのですが、根元のすぐ脇に石垣が迫っており、これが樹勢に多分に影響しているようです。
  参道のケヤキは概して古そうですが、拝殿周囲にあるケヤキは直幹のケヤキで姿が良く、まだまだ若々しい姿をしている。
  200年ほど前に補植をしたのでしょうか、100年後くらいには今見ている御神木のケヤキに変わり、世代交代と成りそうな勢いです。
  かながわの名木100選の選ばれていますが、どちらかというと地味な存在のケヤキ、そんな印象が強いようです。

伊藤博文の著といわれている





樹齢200年のケヤキ


 

境内摂社の菅原神社






 

11:21 厳島湿生公園で休息




園内の厳島神社




12:30 米倉寺  https://www.miuken.net/entry/2020/05/19/000000

東海道線二宮駅と、小田急線の秦野駅の中間のあたりに、足柄上郡中井町の井ノ口という集落がある。

駅からも遠く離れて交通の便は決して良いとは言えず、観光に訪れる人もない静かなところである。

 

ここに古くからあるのが、曹洞宗の古刹である井宝山・米倉寺(べいそうじ)であり、戦国時代に甲州で活躍した武田家の譜代家老であった甘利氏の筆頭同心、米倉(よねくら)一族の菩提寺であるとされている。

時代は流れて武田氏や北条氏が滅亡してのち、関東を治めることになった徳川氏は、武田氏で功を成した米倉氏の子孫、米倉種継を召抱えてこの地に所領を与え、それが縁で菩提寺として築かれた寺であろうと考えられているのである。

この米倉寺の本堂は最近になって建て替えられたものであるが、本堂の内陣の脇には「神奈川県の昔話50選」にも選ばれた「水を飲みに出た竜」が今でも残されているのである。 

この、見れば見るほど迫力が伝わってくる木製の竜は、左右対象に阿吽の像を成しており、躍動感のある表情と今にも黒光りしそうな鱗が実に写実的で、この木像を彫り上げたという江戸期の名工、左甚五郎の技術の高さに、今更ながら圧倒される思いである。

 

この2匹の竜は、時おり寺の近くを流れる葛川(くずかわ)に躍り出ては、水を呑んで戻ってくる習性があった。

空を飛ぶ竜とは言え、大きな身体をくねらせて寺と川を往復するので、その周囲にある田畑の作物はすっかり荒れ果ててしまい、村人はほとほと困り果てていたという。

それも決まって二本の筋が、何かを引きずったような跡になって作物をなぎ倒しているのである。当初は誰の仕業かわからず、おおかた野菜泥棒か悪戯好きの若者が荒らしていくのだろうといって、村人が夜通し竹槍を持って見張りに立ったりもして見たが、いっこうに犯人は出てこない。

やがて、ある夜に村人が葛川のほとりを通りかかると、真っ暗な川の中で、激しく泳ぐものがあった。

はて、こんな夜中に泳ぐのもおかしな話だと目を凝らして月明かりの中を覗き込んでみると、そこには4つの鋭い光が映ったかと思うと、やがて真っ暗闇を切り裂くように月明かりを反射した大蛇か龍が体をくねらせ、畑の作物をなぎ倒しながら寺へと帰って行ったのである。

村人はほうほうの体で転がるようにして帰ったが、あれは間違いなく米倉寺の竜であるとして、村の衆に話したものだから村中は蜂の巣をつついたような大騒ぎになった。

 

しかし、木彫りの龍が寺を飛び出して川に行くなんて、と信じないものもいたのも無理はない。そこで皆で米倉寺へ行って竜を確かめてみると、木でできた竜の体は屋根の下にあるにもかかわらずびっしょりと濡れて、足や腹には田や畑の泥がベッタリとついていたのである。やはり、大切な作物を荒らしていたのは竜であったのだという事になり、村人は相談の上で、竜が二度と水を飲みに出られないようにと、目に釘を打ち、身体を切れ切れに切り刻んでしまったのである。それからというもの、米倉寺の竜が畑を荒らすことはなくなったが、この類稀なる神通力を持った竜に対してひどい仕打ちをしてしまったので、後でバチが当たったり祟られたりしたら困る、と言うことで、釘は抜いて目を直し、お寺の内陣の、それも御本尊様の目の届くところの柱に取り付けてねんごろに供養したということである。

この竜をよく見てみると、黒目がないのに気が付かされる。

これは、もしかするとこの目を直した時に、さすがに釘は抜いては見たものの、また再び出歩いて悪さをすることがないように、わざと黒目を描かずして目を見えなくしてしまったのではないかと推測してみるのも面白いだろう。

本堂の裏にある墓地にある米倉一族の墓  

刀で切られた跡という
いざ本堂へ




ここにも薬医門があった。


米倉寺のそばにある長屋門。春日の局が宿泊するということになり一日で作ったということで「一夜門」ともいう。


13:30 二宮町に入ったらある一色停留所跡

13:59 葛川にある堰

このあたりにあった

14:36 25分に二宮駅前で解散。JR東海道線で国府津駅に向かう。

14:59 国府津駅でJR東海の御殿場線に乗り換え、上大井駅で下車(無人駅)


 
御殿場線は単線のため国府津駅に向かう電車が留っていた。

上大井駅から徒歩で開成町の自宅へ向かう

途中の景色

丹沢の山々


富士山(酒匂川にかかる橋からみた夕方の富士山)
丹沢の三の塔方面

大山の頂上が少し見える




酒匂川にサギが集まっていた

15:34 自宅前から見た富士山。


 25千歩歩いた。ちょい疲れた。今日の夜中に次女と孫が3人来る。起きていられるか?

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