2022年1月26日水曜日12:40 晴れ
昨日25日火曜日三島市にある山中城址に行くために出発。
当初は、十国峠まで歩きそこからバスで箱根峠で下車、その後旧東海道を三島方面に下って山中城址へ。散策後は三島駅まで歩いて帰るという計画であった。
しかしオクミロン株の急拡大で極力人混みを避けるため、車で箱根峠まで行きそこから旧東海道を歩いて山中城址往復するという案に変更。
9:03 いざ熱海を出発
山中城は、戦国時代末期の天文年間から永禄年間(1530~1560年頃)、小田原に本城をおいた後北条氏によって番城(城主を置かない城)として築城されました。山田川や来光川の源流に挟まれ、急峻な斜面に囲まれた自然の要害の地につくられた山城は、標高580メートル、城の範囲は東西500メートル、南北1,000メートルに及びます。城からの展望はよく開け、西櫓からは御殿場・裾野方面が、岱崎出丸からは伊豆北部と駿東の大半を一望のもとに見渡すことができます。
山中城のある伊豆地方北部は、武田・今川領と国境を接しており、本城である小田原城にとって西方防御の要の地でありました。天正年間、全国制覇をめざす豊臣秀吉が小田原攻めに着手すると、山中城は韮山城、足柄城とともに最前線の軍事拠点として重要視され、堀や出丸などの大改修が行われました。天正18年(1590年)3月29日、6万7千の豊臣軍の総攻撃をうけ、4千の北条勢は必死に防戦しましたが、鉄砲と圧倒的兵力の前にわずか半日で落城したと伝えられています。豊臣方で一番槍を果たした渡辺勘兵衛の「渡辺水庵覚書」は、この戦闘がいかに凄まじいものであったかを物語っています。いま、三ノ丸にある宗閑寺境内には城主松田康長以下、敵味方の武将の墓がひっそりと苔むして並んでいます。
山中城は、後北条氏の築城技術を駆使して造られた城で、戦国時代末期の山城の様子が大変よく分かります。昭和9年(1934年)に国の指定史跡となり、三島市では、400年間埋もれていたこの山城の発掘調査を、昭和48年から開始しました。発掘調査によって、曲輪の周囲に巡らされた堀や土塁などの防御施設、堀の上に架かっていた木橋の跡や門柱跡などが明らかになりました。なかでも「障子堀」や「畝堀」は後北条氏の城に特徴的な堀の形で、堀の中に土手状の畝を掘り残して区画し、上から見ると障子や田畑の畝のように見えることからそう呼ばれています。現在は、型くずれ防止のために芝生が張られていますが、本来はローム層(赤土)がそのまま露出し、滑りやすく、登り難い造りになっています。出土品には、鉄砲玉・石つぶて・兜の前立などの武器・武具・陶磁器や古銭・キセルなどの日用品があります。
400年前の遺構がそのまま復元されている石を使わない土だけの山城は全国的にも非常に珍しいものです。昭和56年、三島市制40周年に合わせて史跡公園として一般開放し、以来多くの人に憩いの場として親しまれています。また、春から晩秋にかけていろいろな花木が咲き、天気が良い日には障子堀越しに富士山が見られます。
「障子堀」「畝堀」が特徴的な緑豊かな史跡公園は、歴史的な面、技術的な面で評価され、「日本百名城」にも選定されています。
山中城のある伊豆地方北部は、武田・今川領と国境を接しており、本城である小田原城にとって西方防御の要の地でありました。天正年間、全国制覇をめざす豊臣秀吉が小田原攻めに着手すると、山中城は韮山城、足柄城とともに最前線の軍事拠点として重要視され、堀や出丸などの大改修が行われました。天正18年(1590年)3月29日、6万7千の豊臣軍の総攻撃をうけ、4千の北条勢は必死に防戦しましたが、鉄砲と圧倒的兵力の前にわずか半日で落城したと伝えられています。豊臣方で一番槍を果たした渡辺勘兵衛の「渡辺水庵覚書」は、この戦闘がいかに凄まじいものであったかを物語っています。いま、三ノ丸にある宗閑寺境内には城主松田康長以下、敵味方の武将の墓がひっそりと苔むして並んでいます。
山中城は、後北条氏の築城技術を駆使して造られた城で、戦国時代末期の山城の様子が大変よく分かります。昭和9年(1934年)に国の指定史跡となり、三島市では、400年間埋もれていたこの山城の発掘調査を、昭和48年から開始しました。発掘調査によって、曲輪の周囲に巡らされた堀や土塁などの防御施設、堀の上に架かっていた木橋の跡や門柱跡などが明らかになりました。なかでも「障子堀」や「畝堀」は後北条氏の城に特徴的な堀の形で、堀の中に土手状の畝を掘り残して区画し、上から見ると障子や田畑の畝のように見えることからそう呼ばれています。現在は、型くずれ防止のために芝生が張られていますが、本来はローム層(赤土)がそのまま露出し、滑りやすく、登り難い造りになっています。出土品には、鉄砲玉・石つぶて・兜の前立などの武器・武具・陶磁器や古銭・キセルなどの日用品があります。
400年前の遺構がそのまま復元されている石を使わない土だけの山城は全国的にも非常に珍しいものです。昭和56年、三島市制40周年に合わせて史跡公園として一般開放し、以来多くの人に憩いの場として親しまれています。また、春から晩秋にかけていろいろな花木が咲き、天気が良い日には障子堀越しに富士山が見られます。
「障子堀」「畝堀」が特徴的な緑豊かな史跡公園は、歴史的な面、技術的な面で評価され、「日本百名城」にも選定されています。
山中城址跡バス停の前の案内所売店にある各案内版
旧街道
散策コース。
旧街道は後で歩きます
10:06 まずは岱崎出丸跡へ
畝と堀の写真。これを見たかったのだ。
これも見たい障子堀
御馬場跡
御馬場
三島方面
御馬場堀
攻めるのは大変だ!右の壁は登れないな。
土塁
見晴台
見晴台の北側にあった一の堀
10:19 日本一の大吊橋「三島スカイウォーク」(有料)
10:19 富士山は麓しか見えない
すり鉢曲輪の横にある武者溜り跡
武者溜り跡
150mの一の堀には畝が17ヶ所ある
御馬場堀。先程は先の看板辺りから見た。
三島方面
北堀
10:34 バス停そばまで戻り、旧街道を下ってみた。
10:48 旧街道を戻りバス停から反対側の城址へ向かう
左下にある現在地から西の丸方面へ向かう
三の丸堀(西側)は空堀
一部崩れている。左側に一人居るが、今日会った唯一の観光客。
三の丸堀(東側)は水路として利用
10:53 西の丸跡方面へ
宗閑寺は後で行くことに。
元西櫓下の堀
土橋
畝堀が面白い
帯曲輪辺りから見た西櫓堀
三島方面。相変わらず天気は変わらない
本来なら雄大な富士山が!!
凄い!障子堀。これが見たった!
西の丸。回りに土塁が築かれてある。
西櫓
西の丸物見台からみた西の丸
障子堀
西の丸方面に向かう二の丸橋が見える
先ほど見た元西櫓下堀
二の丸橋から左下を見る
同じく右下を見る
二の丸から西の丸を見る
梯子があるので深さが分かる
西の丸
堀
二の丸橋
二の丸
櫓台
本丸西橋
橋から下を見る
(先ほどみた岱崎出丸の図)
この藤棚のあたりに本丸広場があった。
天主櫓
弾薬庫が見える
堀
北の丸
北の丸の崖、急だ!
北の丸
北の丸の端からみた本丸北橋
本丸北橋と天守台
北の丸から溜池へ抜ける道
天主櫓
弾薬庫と兵糧庫
礎石
駒形諏訪神社
神社から北の丸に抜ける道を行く。これも堀か。
二の丸を抜けて箱井戸へ
まだ凍っている。
宗閑寺へ向かう
この先だ
公民館の先がお寺
蛙股
北条方の武将の墓か
豊臣方の武将
12:21 案内所売店で山菜うどんを。温まる!
12:53 熱海に向かう途中
三島方面
今日一日こんな天気であった。
山中城址。一度は行きなさいと秦野観光ボランティアの方が言っていた。納得の城址であった。
0 件のコメント:
コメントを投稿