2022年1月20日木曜日

 2022年1月20日木曜日8:40 晴れ

昨日19日は秦野市観光ボランティア協会主催のウォーキング。

テーマは、矢倉沢往還を歩く~矢倉沢関所跡から開成へ。天気は曇りで寒い一日であったが足柄神社など見所の多いウォーキングであった。

小田急線開成駅8:02発の電車に乗るためにフォームへ。教の天気は富士山が雲に隠れ見えない。本来であれば矢倉岳の右側に見えるはず。一部しか見えない!


小田急線新松田駅。

地蔵堂行きのバスに乗る。

9:20 足柄古道入口バス停に到着
本来であれば、地蔵堂まで行きそこから古道を歩くのが通常だが、一部道路に歩道がないので危険防止のため手前からスタート。ちょっと残念!

バス停にあった案内図

9:26 歩き始めてすぐにあった家康人馬の跡。

道路に面した案内

9:30 ここから古道に入る


9:32 古道からみた大山。午前中はこんな天気であった。

9:45 また国道に出てちょっと先に進むとみかんの販売所がる。
実はこの細い道を登っていくと山本さんという陶芸家がいる。二度いって陶器を買たお気に入りの窯がる。

9:52 矢倉沢公民館でトイレ休憩。この先にトイレはない!
お気に入りの矢倉岳標高870mが目の前だ。

10:00 公民館をでて古道へ戻ると関所跡
北側に山、南側に川、その間約200mに竹垣であったとか。

関所があった民家に碑が

左の道が古道

民家の庭に碑がある


10:05 関所は18時閉まるので近辺には数件旅籠があった。今はこの立花屋の建物しか残っていないとか。

当然今は営業をしてません。

10:08 古道を行き国道のところにあった案内

10:10 国道を作るときに一箇所に集められた各碑。
芭蕉の碑もある。


10:15 古道をさらに進むと金時山が見えた。

10:18 足柄茶畑。この袋は猪除け。中には人間の髪の毛が入っている。ガイドの説明によると床屋の人から人間の匂いがすると猪が寄ってこないとか。なるほど!

10:19 丹沢方面の山々

丹沢の山々の写真を撮っていたら爆音が!慌ててカメラを向けると自衛隊の訓練!4機飛んでいた。


19:20 矢倉岳。この頂上からは同じ高さで自衛隊機が横を飛行しているのを思い出した。

10:39 この地点で古道が90度右折。

10:58 突然という感じで足柄神社が見えた。
最初は矢倉明神社として足柄峠、次に矢倉岳頂上にあり、今は足柄神社として現在地にあるとのガイドの説明。確かに矢倉岳の頂上に石の碑が残っているのを思い出した。

足柄神社略誌
 縁起 伝説としては、日本武尊御東征の砌、足柄村にしばし御滞在なされ仮宮安在所を設け慰労後、尚明神嶽から足柄山を越えなむとするも樹木草生い繁り遂に進路に御迷いの所、白鹿眼前に現れ、其の後に従い足柄峠に難なく進むことが出来、此処に於て白鹿消え給うと、これ神霊の御導きならむと待僕を同所に三年間滞在させ、神霊を齋祀されたと云はれている 。
 天望するに南海にひらけし海を逆波と(後の相模)呼称された事や、足柄明神に祈請して、新羅三郎義光が秘曲大食、入調の二曲を伝授され奏した事はあまりにも明晰である。尚此の土地に土着せし瀬戸家の系図には、家相鬼門除の神として崇むと記されてをり(天慶三年)、種々な信仰対照として、崇敬されて来ている。又寛保年間には、水下十三ケ村、旧岡本村和田地区が大洪水に見舞はれし時、幕府及び小田原藩が地元民と協力、気持を直結し明神に再三祈請して難に打勝つ事が出来た事も地誌に見え、かつて巡洋艦「足柄」に霊代を勧請名声をはせた事もあった。現在も諸生産の守護神として郷土一円地方の根強い信仰と崇敬の的となっている。近時、富士写真フィルム会社にも分霊奉斎、生産増進の守護神として創業以来、戦災の外数へる災害なく、一に崇敬厚き対象となっている等、時代の変遷にも一環極みなき郷土との由縁をかちとらえられている事であり、諸祭典と共に諸事の教義も帯び今後の斯界に対処されている。

本殿

拝殿


彫に一見の価値あり






横に石祠群が




観音堂


石仏の下部に掘られた云わざるの猿が彫られている

なかなかの観音堂。驚いた!




11:12 更に進むと日が当たるところには花が咲いていた。


11:20 国道に出て進むと珍しい白地蔵尊。お参りする際うどん粉を地蔵さんに塗る習慣がある。

大変珍しいうどん粉が塗られた地蔵さん

11:34 日蓮宗弘行寺

日蓮宗寺院の弘行寺は、関本山と号します。弘行寺は、日蓮上人が身延山から池上へ向かう途次、当地の下田五郎左衛門邸に投宿、その邸を一寺とし、地名年号に因んで関本山弘行寺と号したといいます。境内には徳川家康側室「お萬の方(養珠院殿)」の母堂性殊院殿の墓があります。





お萬の方の墓
家康は浄土宗で日蓮宗を嫌っていたが家康側室お萬の方は日蓮宗。家康が日蓮宗を迫害しようと際お萬の方が防いだとか。こんな人の五輪塔があるとは驚きだ。

『新編相模國風土記稿』に「養珠院殿母堂墓、五輪塔なり、高二尺八寸(八五センチ)法名性殊院妙用日理と號す。天正十九年(一五九一)八月七日死、按ずるに養珠院殿は紀伊大納言頼宣卿の母公なり、當寺に葬せし来由詳ならず」と記されている。養珠院殿は、「お萬の方」といい正木頼忠の娘、蔭山氏廣の養女で蔭山殿と称し徳川家康側室となられた方である。
甲州身延に往復された途次に日蓮上人御一宿の霊場である当寺をたずね、亡母の冥福のために遺物を埋葬されたのか、母堂がここで亡くなられたのを供養されたのか、この性殊院の墓と伝えられる五輪塔がある。
寺宝とされている桃山時代の金蒔絵の碁盤は、この関係で蔭山氏廣から寄進されたものといわれている。(南足柄市教育委員会掲示より)



江戸時代の南足柄市の英雄といえば下田隼人(後述)の墓もある。

11:56 足柄道坂本駅跡。
足柄道は古代律令制で制定された官道で、ここ市民グランドは当時の駅があった場所。
駅といっても今と違い、都からの通達などを伝える代え馬がいた所。

関本宿は「坂の下」にあったことから古代には坂本の名で呼ばれ、足柄関が設置されて以後、関本になったという。
駅馬24匹を常備した古代の足柄道(古東海道)の駅跡。右の総合グランドが駅舎跡と推定される。
矢倉沢往還と小田原からの甲州道が合流する宿場として栄え、道了尊大雄山最乗寺の門前町としても繁栄した。
旅籠などが立ち並ぶ街道の裏には水路があり、継ぎ立ての馬が水を飲んだり、馬を洗ったりしていたという。


昼食は関本公園。その横にある君塚。

お君とは旅籠の遊君(遊女)で、特定の個人名ではないようだ。
「関下(関本)の宿をすぐれば、宅を並ぶる住民は人を宿して主とし、窓にうたふ君女は客をとどめて夫とす。あわれむべし」『海道記』より




12:52 旅籠本陣福田屋
本来は東海道でもないので本陣とは言わないが、藩主がここに泊まったことから本陣と言うらしい。


本陣福田屋跡

12:52 当時の関本宿


13:00 時宗龍福寺

龍澤山吉祥院龍福寺は、時宗(開祖・一遍上人)の念仏道場として、二代目真教上人により永仁六年(1298年)に開かれました。『関本の三福寺』として古くから知られており、本尊阿弥陀如来坐像は鎌倉初期の作で、市指定文化財に指定されています。また、境内には義臣下田隼人の碑があり、堂内には石仏「おびんずるさん」があります。古来より、この石仏に触ると病が治ると信じられてきました。江戸時代には歴代の和尚が寺子屋を開き、文徹上人(当山三十三世)の『化源館』が、明治時代に『小学化源館』となり、南足柄小学校が開設されました。本尊は阿弥陀如来。石仏「おびんずるさん」に触ると病が治るご利益があると言われています。




阿弥陀如来座像


義民下田隼人の碑

江戸時代のはじめ、小田原藩では財政悪化を埋め合わせるため領内の総検地を実施するとともに、新税として麦租を導入しようとします。
これに対して相模国足柄上郡関本村(今の神奈川県南足柄市)名主の下田隼人は、一揆を起こそうとした百姓らを宥め、藩主の稲葉正則に対して直訴を行います。これにより麦租は撤回されますが、下田隼人は徒党を組んで強訴に及んだとして死罪を言い渡され、万治3年12月23日に処刑されました。


一遍の家紋足市本の龍福には、下田隼人を顕彰するする石碑が建てられている

13:27 道標

13:28 曹洞宗福田寺


これも道標

往還は下から来てここ福田寺と道標があるところを左折している。

開成方面へ向かう往還

寒念仏とは、僧が寒の30日間、明け方に山野に出て声高く念仏を唱えること。のちには俗人も寒夜、鉦 (かね) を打ちたたいて念仏を唱え、家々の門前で報謝を請い歩いた。


真ん中が馬頭観音で左右に六地蔵で七つある

馬頭観音。頭に馬がいる。

往還。
往還は律令時代からある官道で、人や荷車が通る。従って道に迷わないよいうに見晴らしのよい尾根を通ったり、荷車が通り安いように急坂は避けてわざわざ遠回りをしてくねくね道を作ったとさ。

13:55 宮台のお地蔵さん

ガラスで反射して見えない!!!残念。

開成駅に予定通り14:30着。日頃通り過ぎるだけの道を説明を聞きながらゆっくり歩いた。

写真はないが、貝沢川では承久の変で処刑される予定の公卿藤原範茂が身を投じたとの説明も聞いた。処刑されると極楽には行けないので、着物に石を詰めて水量の少ない貝沢川で自ら命を絶ったとのこと。

なかなか興味深い話が多く楽しいウォーキングであった。感謝!

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