2025年4月17日木曜日

4月17日秦野観光ボランティアと歩く 上地区歴史ハイキング

 2025年4月17日木曜日15:30 快晴

今日は快晴の一日。秦野市の上地区(市北西部 )を渋沢駅から歩く。

今日のスケジュール表



 8:28 小田急線渋沢駅を徒歩で出発。
8:54 まずは御嶽神社

奈良時代、御嶽信仰は吉野の金峰山を霊場とする山岳信仰に始まり、「金剛蔵王権現」を祭神とする修験道は室町時代に全国に広まった。江戸時代になると修験者の移動が禁じられ各地に定住し加持祈祷や安産祈願等をするようになった。従って当神社も室町時代頃に「蔵王権現」を祭神とする「蔵王宮」といわれる神社が創建されたものと思われる。堀四ヶ村(堀山下村、堀川村、堀斉藤村、堀沼城村)の鎮守として上社が堀の郷八幡宮(堀山下の八幡神社)で下社が蔵王宮として信仰され、毎年祭典には堀の郷の氏子総代が参拝する慣習が現在でも残されている。明治維新の時に神仏分離令が出され、修験道が廃止され神道の国教化が進み廃仏毀釈運動が高まり、明治6年、「日本武尊」を祭神とする御嶽神社と呼称されるようになり、村社に格付けされた。さらに、明治末年には大森稲荷神社の祭神である宇迦之御魂命を県庁の指示により合祀された。



階段が41段。「四十良いことがある」ということで41段に。





9:09 波多川地蔵堂 

秦野にあった「秦野24所地蔵尊」のうち13番目の地蔵尊で室町時代の作と言われている

地蔵堂の前にある三界万霊

9:19 天津神社

天津神社は堀西の波多川地区の氏神。『秦野風土記 世間話と信仰(上)』(岩田与一/1985年)には、棟札に宝永元年の記載があったと記されている。神社は一般的に南向きか東向きが多いという。しかし、天津(あまつ)神社(秦野市堀西766)はなぜか西向き。龍図は漆喰製



9:30 桂林寺 

神奈川県秦野市にある浄土宗寺院です。
文安三(1446)年開創。
念仏講が盛んであったことで知られ、境内には秦野市全域の講中の名前が入った念仏供養塔が建っています。
また境内を覆う椎の木群はそれぞれ樹齢400年以上と言われる古木です。



椎の木
9:46 四十八川沿いに進む

10:17 道祖神



11:27 生き物の里近くの田んぼ 神事をしたあとがある
 
この一帯が生き物の里 指定第一号
 




11:34 道祖伸
電線に
11:39 この一帯は遠山の金さんの関係者の管理地という話がある
11:43 長福寺  1595年建立の曹洞宗の寺





屋根が変っているいる、なんだろう?
12:02 白體不動尊

江戸時代には本堂や庫裡(くり)を持つ天台宗の不動院があった。明治時代に火災で焼失し、今は不動堂だけが竹林の中にひっそりとたたずんでいる。戦国時代の後北条氏は、竹林を保護していたという。不動堂には1809年<文化6>の棟札(むなふだ)があり、柳川に住んでいた宮大工、長山金吾矩稠(のりしげ)の名が記されている。本尊(ほんぞん)は体の真っ白な珍しい不動尊である。この白体不動は、鎌倉時代に曾我兄弟が、父の仇を討つために、祈願に通ったといわれる。兄の曽我十郎が不動尊に捧げた願文(がんもん)は、三廻部の観音院に納められている。

不動堂の手前にあった木






12:31 杉を載せた道祖伸

12:31 上商医学校の北側にある新興の住宅街。都心からの移住者が中心とか
12:52 上秦野神社

当神社の創立年代は明らかではありませんが、後陽成天皇(百七代)の文禄3年9月、再建し、仁孝天皇(百二十代)の文政4年正月、更に社殿を建築したと云われています。古くは社号を八幡大菩薩と称しましたが、明治元年2月、八幡神社と改めました。明治11年7月、村内明神社、天神社の2社を合祀し、其の後明治42年迄の間に前記の各神社の祭神十九柱を合祀するに当たり、仝年4月7日、社号を上秦野神社と改めました。終戦後「宗教法人上秦野神社」と呼称されるに際し、住吉神社御分霊を旧三廻部住吉神社に分祀し、住吉神社は独立祭祀を行うようになりました。





12:59 途中の花々

13:00 
13:01 イボ地蔵

13:07 花々
13:08 馬場坂
13:11 三の塔方面

13:35 ゴールの渋沢駅到着
一日天気は快晴。風もなくむしろ暑いくらいであったが、楽しいハイキングでした。    ボランティアの方に感謝。




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