2024年4月17日水曜日

4月17日 秦野市観光ボランティアと歩く 東田原中丸遺跡くずは峡谷と本町地区歴史建物探訪

 2024年4月17日水曜日17:25 晴れ

本日は秦野観光ボランティアと歩く企画に参加。今年度2回目のウォーキング企画。

本日のスケジュール表


8:41 秦野駅発8:20のバスで実朝御首塚のある中庭バス停で下車し首塚へ向かう。




実朝首塚
五輪塔は、昔からあるお墓のひとつです。五輪塔の構造は、下から方形・円形・三角形・半月形・宝珠形の5つの石から成り立っています。平安時代と古く、弘法大師(空海:真言宗の開祖)の発案といわれています。
五輪塔は、インドの五大思想を基にした日本独自の建築物です。それぞれの形は一定ではなく、建てられた時期や場所によって材質が異なるという特徴があります。下から地、水、火、風、空を意味しており、地から積み重ねていき最後は空に到達して五輪塔の形が完成します。宋から伝わった石造りの高度な技術によって、硬質な石を使って建てられていました。鎌倉時代に建立された五輪塔は、「鎌倉型五輪塔」と呼ばれています。

因みに、宝篋印塔(ホウキョウイントウ)は、平安時代以降に建立。相輪(九輪)・笠・塔身から構成され、供養塔として個人墓の周辺に建てるのが一般的です。

首塚の前にある東田原遺跡
秦野城はここにあったのでという説が今では強くなっているとか。
中国製の青磁・白磁は神奈川県ではほとんど出土していないそうだ。例外は鎌倉とここだけだとか。故に、ここに城があったという説が生まれた。



8:56 野菜の販売と蕎麦屋がある。

9:23くずは渓谷に向かう途中にあった轟坂。地元では「トドロク」と読むそうだ。
昔この近くに滝があり、この坂の途中で休んでいる人に滝の音がとどろいていたとの昔話があると。

9:37 くずは渓谷入口

9:42渓谷にかかる吊り橋

くずは川に降りると断層が現れます。
この峡谷のある葛葉緑地は昭和62年3月に神奈川のナショナルトラスト緑地の第一号に指定されたとのことです。
入り口には「くずはの家」があり、そこをスタートに自然の散策路が続いています。秦野市の葛葉川沿いにある自然散策に適した峡谷と言うことができます。
葛葉川は丹沢山地から流れ出し、秦野盆地に扇状地を造り市街地に貴重な深い峡谷を刻む金目川の支流です。川は秦野市を流れる金目川水系の二級河川で、二級河川部分の延長は6.22Km。くずはの家を起点として、「くずはのつり橋」を渡ると、この緑地に入って行きます。 先ず、おおきな「おにぐるみの木」がある広場は「おにぐるみの広場」とありました。それから、峡谷に続く細い木で出来た階段を下って行くと、峡谷に出るのですが、川の向こう側には「しましまになっている地層の白い部分」があります。これは昔、箱根山の火山の噴火で飛んできた火山灰が積もって固まったものだとの説明板がありました。

丹沢山塊から流れる葛葉川は、秦野の台地を深く刻み、大きく蛇行しています。最も深いところで約30mの切り立った崖がある“峡谷”を形成しています。地層観察にはうってつけの場所です。
 秦野地域は箱根や富士山が近いために火山噴火の様子を地層で見ることができます。川の水面あたり、白っぽく見えるのが約12万年前の箱根火山の噴火で灰や砂、軽石などが飛来した層です。その上の層の厚く黒い部分は関東ローム層といって、もともとは火山灰ですが、どこの火山に由来するかは不明です。ゆっくり時間をかけて堆積し、植物の腐食を重ねた層といえます。そしてまた時間が経過して噴火し、白い層が積まれるわけです。上の方に見える小石などのレキも上流から流れて堆積した層で、約5万年前といわれています。






全体像


広場の建物のベランダにシジュウガラの抱卵中のビデオ

この中に居る。木にビニールをまいて蛇(主に青大将)が卵を食べに来ないようにしているそうだが、敵もさるものでなかなか防げないそうだ。全部蛇に食べられたこともあるそうだ。

10:14 くずは渓谷の南斜面の上にある金毘羅神社


10:26 乳牛(ちゅうしと読み地区の名前)水神石碑
この湧水は、秦野の上水道の歴史上、特筆すべきものです。
往時は、この地域では井戸を掘っても水を求めづらく、唯一湧き出ていた「井之大明神・井之明神社」(曾屋神社の旧称)と、乳牛水神社の湧水の二か所の水源を利用して生活を営んでいました。



10:32 水神石碑のそばの道路にある隧道入口。およそ150年余り前、安政5年には、氏子の佐藤安五郎氏が巨費を投じて隧道を完成させ、水源の増水に成功しました。
 

隧道入口の反対がwにあるロ号源泉

ロ号源泉

10:33 隣にある水道発祥の地


秦野の水道は明治23年3月に給水を開始し、横浜、函館とほぼ同時期に、全国的にも極めて早い時期に建設され、簡易陶管水道・自営水道としては日本初(諸説あります。)の曽屋水道を発祥としています。

当時としては非常に珍しく、水道について住民が主体となって、計画を立て、お金を出し合って作り上げたため、当時の方たちの汗と涙の結晶と言えます。


当時の水道用水の地図

10:43 曽屋神社



曽屋水道発祥の神水





妹背石の男石と女石


10:56 曽屋道を歩く

11:11 大用寺
大用寺は、神奈川県秦野市の弘法山のほど近くにあり、山号を井宮山(セイキュウザン)、寺号を大用寺とする曹洞宗の寺院です。
 御開山は、天正十年(1582年)、真翁宗達大和尚によるが、織豊時代の天正十九年(1591年)宗達遷化、と記録にある

全国でも少ない珍しい鐘楼門をくぐると、目の前には大きな百日紅の木と本堂があります。
この百日紅はお盆の時期には鮮やかなピンクの花を咲かせ、秦野市内の観光スポットにもなっています。
寺伝は現存されていない。本尊は、木彫りの如意輪観音像で、本堂内に安置されている。一般公開はしていない。







12:08 ランチをイオン秦野店で済ませ、出発。午後は本町地区の歴史建物探訪が中心。まずは、この蔵は石田屋塩蔵。

12:11 小峯神社


12:18 出桁(だしけた)建築の商店
軒を深く前面に張り出した「出桁(だしけた)造り」や前土間などが地域の町屋の特徴を示しているほか、滑らかに光を反射させる「磨き漆喰」の壁、良材を用いた座敷部が当時の景観を伝えている。



柱型や柱頭飾に意匠を凝らした古典様式風の外観で親しまれている。関東大震災後、秦野の商業地の中心だった本町四ツ角周辺では、復興の象徴として西洋古典様式やアールデコ様式などの影響を受けた建物が多く建築された。同建物はそうした建築物の一つだという。



後ろの住居部分は和風建築


13:03 五十嵐商店のなかにあった昔の写真
軽便鉄道

乗合馬車

昔の大秦野駅舎(現在の秦野駅)

五十嵐商店の別棟の蔵の内部


五十嵐商店
五十嵐商店は関東大震災後の建築物で、震災への対策や当時のデザインの流行がよく分かる建物。

13:38 立花屋茶舗店舗兼主屋は、1865年(慶応元年)頃に建築。1927年に移築、35年・70年頃に増築された。店舗左の蔵は江戸末期、右の蔵は1908年に建築されたと見られる。通りに面した軒の低い町屋「立花屋半兵衛・茶舗」の大看板と茶蔵を持つ屋敷構えが江戸末期から明治初期の和風店舗・茶舗の姿を今に伝えている。

13:45 秦野駅到着。水無川にかかる橋の恵右から丹沢方面を見る。

天気予報では、雷注意とか言っていたが結局雨にも雷にもあわずのんびりとしたウォーキングであった。

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