2023年5月
9日火曜日は風はあるものの快晴で一日楽しくウォーキングできた。
コースは、秦野駅からバスに乗り秦野総合高校前で下車。そこからウォーキング開始。
まずは震生湖を経て中井町の中央公園でランチ。ランチ後中井町役場のそばを南下して
中村宗平館跡を訪ねて井ノ口小学校前まで行き解散というルートだ。
7:50 開成駅からみた今日の富士山。4月と5月の積雪量が一番多いと聞いていたが
既に大分融け始めている。
8:44 秦野駅からバスにのり秦野総合高校前で下車。下車したところは市立
立野緑地庭球場でシンボルがある。
8:54 途中の咲いていたジャーマンアイリス
8:58 震生湖へ行く途中にある金井場配水場からみた江ノ島方面9:02 尾根歩きの途中からみた丹沢の塔の岳方面
9:04 一色の宮
畑の中にサカキの古木でおおわれた小高い場所がある。ここは、一色伊予守(いっしきいよのかみ)の館があったと言い伝えられている。室町時代、鎌倉公方:足利持氏(かまくらくぼう:あしかがもちうじ)は幕府と争ったが敗北した。<永享の乱:1438~39年>。持氏の家臣であった一色伊予守の近親者は、今泉の館に逃れたが、追っ手が来ると再び落ち延びてしまったという。
サカキの根元に1645年<正保2>に造立された小さな石の祠(ほこら)があるが、これは市内の造立(ぞうりゅう)年代の分かる庚申塔(こうしんとう)の中で最も古いものである。
9:22 震生湖着
1923年(大正12年)9月1日の関東大震災で震生湖は誕生しました。 東側の絶壁は当時の崩壊した跡といわれています。
9:41 境別所自治開館には阿弥陀三尊が保管されているが、中は見れない。残念!
道なりにみかんの花咲く里山コースを進む。
会館横にある碑 左が后土神、右が双体道祖神
后土(こうど)は、四御の唯一の女神であり、中国道教の最高位の全ての土地を主宰する地母神。大地山川・陰陽と生育を司る墓所の守り神であり、主に女性や死は陰と位置づけられる事から、墓所の神は女神となった。城隍神や土地爺と共に土地の守護神の一種に位置づけられていた。
双体道祖神は、民間信仰で、もっとも庶民の間に親しまれていたのは道祖神信仰である。
双体道祖神は長野、山梨、静岡、神奈川、群馬の5 県に限定されているといわれるほどで県内では珍しい存在であり、その信仰系体に興味がある。双体道祖神は写真で見るように男女のカップル像であるが、この素朴な石像に秘められている心はなんであろうか、男像の右手が女像の肩にかけられ、その手を女像の右手が握っている。双方の左手は1 本の杖を仲よく握っている。江戸時代の造像としては大胆なポーズである。双体道祖神は縁結び、夫婦和合、子宝授けの神さまとして、本来の道祖神信仰が変形した性神的要素を多分に含んで信仰されてきたようである。
境コミュニティセンターにあった近辺地図。
9:59 東名高速の陸橋を渡る
10:01 東名をこえるとみかんの木々が一杯咲いていた。
大山をバックに
10:09 左下に見える建物が足柄乳業で金太郎牛乳を製造している。10:28 ふれあい境休息所にあるオブジェと富士山
11:09 ランチは中井町中央公園で。長い滑り台と鯉のぼりがあった。
11:48 ランチ後中井町役場を通り越して西参道から五所八幡宮へ。
平安時代末期、後白河天皇の保元2年(1157年)比叡山の僧義圓が東国行脚の折、当宮の元宮という雑色村子ノ神社に一夜の宿を借り、霊夢をみて白鳩に導かれ現在の地「龍頭丘の社」に至り、ここに現われた童子(御主祭神・誉田別命)の霊言に従って勧請したと伝わる。
五所宮の由来は、大分県宇佐に初めて八幡宮の勧請ありしより、石清水・鶴岡・壷井各八幡宮につぎ第5に当たる故という。創建当時は源頼朝祈願所六十一社の1つとされ、頼朝に仕えた当地の豪族、中村荘司平宗平が守護神として崇敬し、以後三男土屋三郎、娘婿曽我太郎両家が祭典の供物を納めたという。文明元年(1469)正月火災にかかり同13年再建御遷宮(ごせんぐう)。その後小田原北条氏を始め武家方の崇敬を集め、神宝として曽我五郎時致(ときむね)寄進の弓、脇差一腰(わきざしひとこし)、江戸幕府老中の稲葉丹後守正勝(いなばたんごのかみまさかつ)寄進の太刀一振(たちひとふり)、甲冑一領(かっちゅういちりょう)他多数有りと伝わるが、多くは戦後盗難により消失。享保7年(1722)から延享4年(1747)に大改修が行われ、社殿・覆殿(おおいでん)・客殿(きゃくでん)・庫裏(くり)・鐘楼堂(しょうろうどう)・隋神門(ずいしんもん)・隋神像(ずいしんぞう)・大鳥居を再建。明治6年郷社八幡神社と改称。この頃神仏分離令に伴う誤解から荘厳な随神門が廃棄された。明治41年から43年、村内17社の祭神を合祀(ごうし)し「諸願成就の宮」と呼ばれる。明治41年神饌幣帛料(しんせんへいはくりょう)供進神社に指定。昭和43年献弊使参向(けんぺいしさんこう)指定神社となる。
平成11年11月1日「五所八幡宮」と再改称し社号標を再建した。
狛犬をのせる台座の支えが4脚。結構古いのでは?
表参道の急な階段。滑らないように慎重に降りる。
階段途中から見えた梵鐘降りて見上げたらやはり急だ!
12:18 中村氏居宅跡
中村氏(なかむらし)は、日本の氏族のひとつ。坂東平氏の一つで、相模国西部に勢力を持ち、源頼朝挙兵時にその軍の中核をなした。師長国造の子孫ともいわれる。
中村荘司宗平以前
中村氏は、桓武平氏良文流である平忠頼の子平頼尊に始まるという。頼尊は出家した後、山辺禅師と号した。頼尊の息子が武蔵押領使常遠であり、その息子で横浜市栄区笠間に住した笠間押領使常宗が鎌倉景正に討たれたことが『桓武平氏諸流系図』[要文献特定詳細情報]に記載されている。
そして、常宗の子である宗平の代になって初めて中村の名字を名乗ったとされる。
しかし、諸系図では宗平以前は混乱している傾向が見られる。一般に良文流と言われているが、その兄・良兼の子孫とする系譜も存在し(『富岡家本土肥家系図』[要文献特定詳細情報])、常遠については平忠常の子に置く系譜も見受けられる(『千葉大系図』[要文献特定詳細情報])。さらには、記録(『水左記』[要文献特定詳細情報])には、承暦3年(1073年)押領使景平なる人物が権大夫為季に討たれると記載されていることから、本来は押領使景平の末裔だとも言われている。以上のように、宗平以前は不明なところが多い。
中村党の勢力拡大
平宗平は相模国余綾郡中村荘(現・神奈川県小田原市中村原、中井町中村付近)にちなんで中村荘司と称した。中村氏の実質的な始まりだが、一族も発展することとなる。
嫡子の重平は父から中村の名字を継承した。次男の実平は土肥氏を称し、その息子の遠平は小早川氏を称した。三男の宗遠は土屋氏を、四男の友平は二宮氏を、五男の頼平は堺氏をそれぞれ称した。
かくして中村党が形成されたのだが、本宗である中村氏は振るわなかったようで、後に土肥・土屋一族がその中核を占めるようになる。
また、宗平の娘である桂御前は、同じく相模国の豪族である三浦党の岡崎義実に嫁ぎ、義忠・義清兄弟をもうけている。この内、義忠は佐奈田氏を称しているが、弟の義清は母方の叔父である土屋宗遠の養子となり、土屋氏を称している。
もう一人の宗平の娘である満江御前は伊豆国の伊東祐親に嫁いでいるが、諸系図を見ると中村党と伊東(久須見)一族と密接に婚姻関係を結んでいたのが分かる。
宗平の娘と祐親の間には、河津祐泰、伊東祐清、八重姫、万劫御前らが生まれたが、この内、万劫御前は最初は工藤祐経の妻であったが、後に土肥遠平と再婚している(遠平の娘は、祐経の子・伊東祐時に嫁いでいる)。河津祐泰は曾我兄弟の父として有名だが、祐泰の妻・満江御前は最初は源仲成に嫁ぎ、最初の夫との間に出来た娘は二宮友平の息子・友忠に嫁いでいる。
鎌倉党との抗争と石橋山の戦い
中村宗平は父が鎌倉権五郎景正に討たれたゆえんか、鎌倉党を敵対勢力と見なしていたようで[要出典]、天養元年(1144年)の源義朝の大庭御厨乱入事件に積極的に参加している。
治承4年(1180年)に、義朝の息子の源頼朝が挙兵すると宗平も、これに参加し、一族を引き連れて北条、加藤、天野、佐々木の諸氏と共に山木館襲撃に参加している。
その後、頼朝勢は石橋山に進撃し、石橋山の戦いが始まるが、これを迎え撃った平家方の大将は鎌倉党の大庭景親であり、その許には梶原、俣野、長尾と言った鎌倉氏の一族が多数馳せ参じていた。他方、頼朝勢には、宗平嫡孫の中村景平・盛平兄弟(中村重平の子)、土肥実平親子、土屋宗遠親子、岡崎義実・佐奈田義忠親子と言った中村党の面々が多数参加していた(ちなみに、宗平自身は老齢が理由か[要出典]、直接は参戦していない)。この内、岡崎親子は三浦党の人物だが、上記の姻戚関係などからすると実質的には中村党の人物と言った方が近い(岡崎氏の諸氏は、後に土屋・土肥の諸氏と共に活動していることが多い)。
他にも、頼朝勢には、佐々木、北条と言った多数の諸氏が加わっていたが、実質的には中村党が中枢を占めていた。頼朝が本陣を置いたのが土肥実平の所領であり、石橋山の戦いは見方次第では中村党と鎌倉党の戦いとも見て取れる[要出典]。なお、平家方には縁戚である伊東祐親一族も参加しており、同族同士の戦いの側面もある。
戦いは頼朝勢の大敗に終わり、多くの中村党の人物が討死した。佐奈田義忠の戦死は余りにも有名だが、土屋宗遠の子・忠光も討ち死にしており、中村景平・盛平兄弟も後に記録に見えないことから、この時に討死にした可能性が高い[要出典]。北条時政の長男・宗時も後に討死にしているが、彼は宗平の曾孫である。
土肥実平は敗走する頼朝に付き従って安房国に落ち延びているが、その間のやりとりが、『吾妻鏡』[要文献特定詳細情報]、『源平盛衰記』[要文献特定詳細情報]に記載されている。
和田合戦
頼朝が再起すると、中村党もこれに従い、平家追討、奥州合戦に参加し、鎌倉幕府樹立に功を立てている。なお、中村氏の本宗は絶え、土肥・土屋一族が中枢を担うようになったが、『吾妻鏡』[要文献特定詳細情報]にも「土肥・土屋の一族」と記載している。
建保元年(1213年)の和田合戦には、土肥・土屋・岡崎一族は和田方に加わり、多数の者が討ち死にしたことが『吾妻鏡』[要文献特定詳細情報]に見出される。
その後、生き残った一族は、甲斐、越中、安芸などの豪族として発展した。
12:18 中村一族の館がこの付近に合ったらしい。
12:13 中村一族の墓といわれているが詳細は不明中村庄司平家の下が見にくい12:33 個人の敷地内にある五輪塔の説明文
個人の敷地内の謎の五輪塔
12:43 なまずの天ぷらが食べられると!
12:45 中村一族の居宅跡から秦野方面へ北上。道は大山道羽根尾通り。
途中にある宇塔坂の五輪塔。詳細は不明。
この坂道が宇塔坂という。
12:51 宇塔坂を上っていくと弘法大師堂がある。
弘法大師堂説明板より
この堂の中には石の弘法大師像三体が安置されている。弘法大師(空海)は水脈を知る能力を備えていたという。堂入口の井戸も、弘仁年間(800年代)弘法大師が諸国行脚の途中、この地に休息して杖を立てたところ、清水が湧き出したと伝えられる・・・実はお堂の少し下に水神さんの碑がある。清水が沸き続けてほしいということで置かれているらしい。
右側の指導標には【 一本松・富士見台休息所→
】とある。
中を覗くと
13:04 宇塔坂を上りきると一里塚跡という標識があった。
13:05 鉄塔の間から富士山が!
13:06 丹沢方面
13:06 この花はこんにゃくの花だそうだ!初めて見た!
13:11 一本松跡。ここは街道が交差する場所。このため昔は茶店もあったらしい。
道標。右側の像は首がない。
13:42 最後の休憩所井ノ口公民館の中に保存されている軽便鉄道の模型
13:45の秦野駅行バスに乗車し解散。今日一日天気もよくみかんの花の香りを嗅ぎ
ながらの楽しいウォーキングであった。歩数2万歩。
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