2023年5月27日土曜日

5月26日秦野観光ボランティアと歩く 新緑の弘法山と秦野に残る伝説を訪ね歩く~はだのグリーンセンター見学

 2023年5月

今日は秦野観光ボランティアと歩く企画に参加。テーマは、新緑の弘法山と秦野に残る

伝説を訪ね歩く~はだのグリーンセンター見学。

7:53開成駅からみた富士山

今日のコース。権現山でランチだ。
8:33 秦野駅を出発
8:43 天台宗龍門寺着

1591年〈天正19〉に徳川家康から寺領5石(こく)の朱印を受けている。その墓域(ぼいき)には、1848年〈嘉永元〉に、54歳で亡くなった岡田正司の筆子塚がある。越後藩士だったが、浪人となって曽屋村に住み、妙相寺で寺子屋を開いた。門人200余人が師匠のために建てた墓である。また、元町に塾を開いた亀井愛水〈溝呂木守道〉は、1869年〈明治2〉に龍門寺に塾を移し、修身館と称した。1873年〈明治6〉に修身館は公学と認められ、第154番小学の初代校長となった。本町小学校の前身となった修身館は、1877年〈明治10〉に火災で焼失してしまった。当時の生徒数は、男子185名、女子82名と伝えられている。龍門寺には、曽屋水道の功労者である梶山良助の墓もある。

伝説では、平将門(まさかど)が夢にみた都を探し回り、秦野の地にやってきて、今の龍門寺辺りに滞在したという。ある夜、将門の夢まくらにキツネが現れ、「この郷(さと)は将門の居城としては狭い。南の方角の地形も良くない。」と告げたという。将門は、キツネがすみかとしていた祠(ほこら)に何度も参拝し、秦野盆地を後にした。この祠は以前、日本専売公社秦野支局内の鴨居屋敷内にあったため、地名をとって鴨居稲荷と呼んでいたが、戦後、妙法寺(後述)境内に移された。妙法寺には、もともと白玉稲荷があったため合祀(ごうし)し、白玉鴨居稲荷となった。桓武平氏の将門が当初はこのあたりを本拠地と使用としたが夢に狐が出てきてここは本拠地とするのは良くないといわれて日立の方へ言ったという伝説があるらしい。

今から千年以上も前、平将門が関東の大部分を征服している時、秦野に来て地形が京都によく似ているので大変気に入り、元町の龍門寺辺りに館を構えたといわれています。そこで、館のあったところを「御門」といい、付近には京都にある祇園、加茂、河原町などの地名が残っています。



8:54 大山道標 御不動様

天社神

地味ながら秦野にしかない風俗として、神社の境内や鳥居の傍らなどに見られる、「天社神」という文字が彫られた石塔がある。

勿論、もともと神社の境内にあったというわけではないだろう。道祖神などと同じように、元は境界に類する所に立てられていただろう。大抵そういった石塔は、神社の中とか寺の中とかに移設されて、元の場所が分からなくなってしまっている。

「天神社」ならば、全国にあまた存在する。菅原道真に関連するいみじき天神社でなくとも、田の神様、「田神」→「てんじん」として転化した例がある。また、関東地方の習俗としてなら、「第六天神社」も有名だ。いずれにしろ「天神」である。

「天社神」は何を表わしているのだろう。長野県で、「天蚕神」と書かれた石塔を見た事があるが、はたして蚕は関係してくるだろうか。

8:58 天台宗妙相寺

関東大震災によって本堂は倒壊(とうかい)し、その後に再建されたものである。境内には弁財天を祭る弁財堂がある。大震災後の延焼がここで鎮火(ちんか)したため、毎年9月1日に法要と縁日が行われている。弁財天は、水神・豊穣(ほうじょう)神として崇拝(すうはい)され、後に音楽・言語の神となり、鎌倉時代以降は衣食住や財宝をもたらす神とされている。二宮尊徳の仕法を布教した安居院庄七(あぐいしょうしち)家の菩提(ぼだい)寺である。

安居院庄七(あぐいしょうしち)家の菩提
9:13 日蓮宗妙法寺
井桁に橘の紋章は、日蓮宗の寺紋

日蓮宗の代表的な紋(マーク)に井筒橘(いづつにたちばな)があります。 彦根のお殿様、井伊家の家紋は橘紋と井筒紋があり法華経を信仰し、日蓮聖人を信仰した井伊家の家紋を組み合わせたのが井筒橘です。 井筒は井戸を表しており、日蓮宗は人が生きていくために必要な水を非常に大事にしています。

本堂

聖徳太子堂
妙法寺の太子堂は、1917年〈大正6〉に二宮・大磯・平塚の大工組合の人々が造営したものであるという。聖徳太子の像が安置されている。聖徳太子は、寺院建立(こんりゅう)の祖と仰がれ、建築に携わる職人たちの守護神として崇拝(すうはい)されている。太子講例祭は、1月と7月の22日に行われ、秦野市内の畳、左官、大工、鳶(とび)などの職人たちが集まって参拝(さんぱい)する。太子講の運営は、職種別に1年ごとに当番となって行われる。
かわいい龍
白玉鴨居稲荷

伝説では、平将門(まさかど)が夢にみた都を探し回り、秦野の地にやってきて、今の龍門寺辺りに滞在したという。ある夜、将門の夢まくらにキツネが現れ、「この郷(さと)は将門の居城としては狭い。南の方角の地形も良くない。」と告げたという。将門は、キツネがすみかとしていた祠(ほこら)に何度も参拝し、秦野盆地を後にした。この祠は以前、日本専売公社秦野支局内の鴨居屋敷内にあったため、地名をとって鴨居稲荷と呼んでいたが、戦後、妙法寺境内に移された。妙法寺には、もともと白玉稲荷があったため合祀(ごうし)し、白玉鴨居稲荷となった。


白玉鴨居稲荷の前には狐の狛犬ではなく狛狐か

白玉鴨居稲荷と書いてある
9:38 中を見学。ゴミについて考えさせられる。
10:57 グリーンセンター2階から見た富士山。実はこの窓のガラスに鳥がよくぶつかるとか。

11:16 権現山に向かっていく途中にある亀の子石。だいぶ地中に埋まっているとか。

ここにも伝説が。


11:23 富士山と秦野市内
ランチを食べた場所の前に咲いていたサフランモドキ(グーグルレンズによる)
12:17 権現山の展望台からみた富士山。何度見ても良い
眼下に小田急が走っている

12:42 ランチ後権現山から下山。
12:43 道路に出た。ここから道路を降りる
12:54 白山神社。今は曽根神社に合祀され神様はいない。徐々に荒れてきたとか!
12:57 長源寺へ向かう
小田急が通過している
上智の短大、2年後には撤退とか。学生が集まらないとか!時代か!

13:01 長源寺着

長源寺は鎌倉・妙本寺の末寺で、秦野では数少ない日蓮(にちれん)宗の寺である。1906年〈明治39〉に秦野町立実業補習学校分教場が開校され、1912年〈大正元〉まで存続した。1922年<大正11>10月からは、中野日曜学校が開設され、長源寺住職や曽屋尋常高等小学校の植木俊助訓導(くんどう)などが、近隣の子ども達に勉強や遊びを教えていた。

新編相模国風土記稿』には、「法華宗鎌倉比企谷妙本寺末、開山日柄、中興日融円行院と号す、貞享元年九月十六日卒、本尊三寶諸尊を安ず」と記されている[1]



13:35 命徳寺

江戸時代初期に建築された茅葺き屋根の古い山門のあるお寺。

山門は薬医門という形式で、横から見ると、垂木が中心より前方にあるため、屋根全体が前の方に片寄っています。

秦野に残る古い建築物の一つで、平成15年に秦野市の重要文化財に指定されました。命徳寺本堂は、1651年(慶安4年)頃に再建されたという記録はありますが、当初のものは内陣まわりに残っているだけということです。


市の重要文化財である薬医門
小規模の薬医門で軒は一間(約1.8メートル)ですが、垂木は大きく反りあがっています。冠木(かぶき)上に男梁(おうつばり)を組み、先端に出組斗(でくみと)を乗せ妻虹梁(つまこうりょう)を受けます。妻飾りは板蟇股(いたかえるまた)です。材質はケヤキで当初材をほぼ残す市内最古の建築物です。
門の中心と屋根がずれているのが特色



本堂前の木に咲いていた
龍がよい
薬医門と本堂との間にある木。





13:45 地元では有名な落花生の老舗
水無川にあったデザイン 軽便鉄道の蒸気機関車
同じく弘法太子
同じくたばこの葉を乾燥させているところ

13:54 弘法の清水

昔、修業のため全国を歩いていた弘法様が、ある農家に立ち寄り、一杯の水をたのみました。しかし、その農家では、あいにく水をきらしていてありませんでした。

この付近には井戸も水もないので、娘さんが「しばらく待っていて下さい。」といって、遠くまで水をくみに行きました。弘法様が待ちわびていると、娘さんが水の入った手おけを重そうに下げてやってきて、ひしゃくに水を入れ差し出すと、弘法様はおいしそうに水を飲みました。

そのあと、この村が水に困っていることを娘さんから聞いた弘法様は、庭の真ん中に行って杖をつき立てました。そこを娘さんが鍬で掘ると、不思議にも清水がこんこんと湧き出しました。

そこで、この清水は「弘法の清水」(臼井戸)と呼ばれるようになりました。



14:00 寿徳寺曹洞宗寺院。山号は福養山

屋根が面白い
百番観音堂[2] : 元は栄螺堂と称して寛政12年(1800年)9月創建、秦野市尾尻86番地3号にあったが、その後この地に移転した。西国三十三番、坂東三十三番、秩父三十四番を一堂に併せて百番とし、「百番観世音」と称した。

百番観音堂の後ろを電車が



なぜこんなに大きいのか??
このあたりには湧水地がある
秦野駅方面
珍しい電車が
14:13 駅に到着。午後は暑かった。幹事さん、ご苦労様でした!