2024年12月3日火曜日

11月25日長泉院の紅葉と足柄城址からの富士山

 2024年12月3日火曜日16:02 快晴

11月25日快晴、妻と車で、南足柄市の長泉院の紅葉と静岡県小山町の足柄城址から富士山を見に出かけた。

曹洞宗寺院の長泉院は、玉峯山と号す。長泉院は、岩原城主大森信濃守氏頼(寄栖庵)の招請により、大寧和尚(文明2年1470年寂)が岩原薬師堂の地に清泉院と号して開山、大森信濃守氏頼の子息大森実頼(法名清泉院可安道印)が開基となり、当地へ移転させて長泉院と改号したといいます。大森氏廃絶後には、松田尾張守憲秀・小田原北條氏より寺領安堵を受け、徳川家康の関東入国後には代々小田原城主より寺領安堵状を受領していました。

センペルセコイヤの大木(南足柄市指定天然記念物)が圧巻。

まだ少し早かったようだ。



根元から見上げた。






龍門橋から見た参道

龍門橋の側にある石仏
龍門橋から見た川下
龍門橋

車で移動し、小山町の足柄城址へ。足柄城は旧東海道の足柄古道に位置する山城(尾根城)。この上にあります。 

足柄城は大森氏により築かれたとみられ、その後天文5年(1536年)頃に北条氏綱により改修されたと見られるが、正確なところはわかっていない。天文24年(1555年)に北条氏康がこの城に改修をおこなったとされ、これは氏康が三田郷(神奈川県厚木市)の百姓に足柄城普請の人足を出させることを命じた記録からわかっている。

永禄11年(1568年)に甲相駿三国同盟武田信玄駿河侵攻により破棄されると、この城の防衛上の重要性が増したことから、永禄12年から元亀2年(1569年~1571年)にかけて、大幅な改修を行っている。

武田氏滅亡後は、豊臣秀吉と対峙するようになり、天正15年(1587年)には北条氏光を城番とし大規模な改修を施し、天正18年(1590年)に小田原征伐が勃発すると、北条氏光をこの城の守将として配置した。氏光は山中城静岡県三島市)が落城するを聞くと小田原城に退却し、残された守備隊は豊臣方の井伊直政の攻撃をうけ、本格的な戦闘が行われること無く、この城は落城している。

絶景

金時山方面



 

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