2024年5月22日水曜日

5月22日秦野観光ボランティアと歩く~東海大学湘南キャンパス散策

 2024年5月22日水曜日15:11 晴れ

今日は秦野市観光ボタンティアと歩くに参加。コースは東海大学湘南キャンパス散策。

8:30第一陣として鶴巻温泉駅南口を出発。

日程表

8:44 駅から小田急線沿いに新宿方面へ行くと「ひかりの街」という団地を抜けたところからみた団地方面。バックは丹沢。

上の写真の道路の下に川が暗渠になっており、その暗渠の出口の川。灌漑が進むまでは雨が降るとこの辺り一面が沼状態だったとか。

8:47 下部の大山灯籠
毎年7月25日から8月17日までの期間に設置されるかなり大きな灯籠。

灯籠の下に置かれた道標 右大山道、左かない道(平塚方面)とある

上の写真は道標の説明版の右上のもの。

灯籠の標識がある反対側には道祖伸があった。

8:55稲荷社   六地蔵と庚申塔がある。

稲荷社にある壊れた灯籠(真ん中の円筒部分が横に横たわっている)

稲荷社

8:57 大山道道標

9:27 おおね公園で休息後平塚方面へ向かう途中から見た大山

9:41 真田与一
天徳寺は、佐奈田(真田)与一義忠の居城跡に建てられた曹洞宗の寺。

 義忠は、岡崎義実の嫡男で、源頼朝が1180年(治承4年)に源氏再興の旗挙げをするとこれに従ったが・・・
 石橋山の戦い俣野景久大庭景親の弟)と戦い、いったんは景久を組み伏せたものの、血のりで刀を抜くことができず、駆けつけた長尾定景に討たれた。
 境内には与一廟があり真田尊と呼ばれてきた。
 「たんが喉につまったことにより討たれた」という伝説から、ぜんそく・たん・・せきの神として崇められている。
 義忠が討死した石橋山古戦場には、佐奈田霊社が祀られている。

1180年(治承4年)8月17日、伊豆国源氏再興の挙兵をして相模国へと進軍した源頼朝
 8月23日には石橋山に布陣。
 先陣を命じられたのは佐奈田与一義忠。
 頼朝から「大庭景親俣野景久を討って手柄をたてよ」の言われた与一は、郎党の文三とともに壮絶な死を遂げます。

先に見えるのが天徳寺

9:50 観光案内


9:56 塚越古墳
古墳時代前期に築造された塚越古墳は、昭和33年(1958年)の調査当時より墳丘の形から前方後円墳と認識されてきました。しかし、その後の調査等を経て平成19年7月の調査で前方後方墳であることが確定しました。

墳丘が残る前方後方墳は県内でも数が少なく、
横浜市戸塚区の東野(ひがしの)台(だい)古墳群2号墳、
横浜市青葉区の稲荷前(いなりまえ)古墳群16号墳、
海老名市の秋葉山(あきばやま)古墳群4号墳、
茅ヶ崎市の十二天古墳群1号墳
など数えるほどしかありません。さらに塚越古墳は周溝を含め長さおよそ58mで、前方後方墳として相模国領域内で最大の規模を誇ります。
 塚越古墳のような4世紀の年代が与えられる古墳は、河川がもたらした肥沃な耕地を生産基盤とする首長の政治的支配の出現を意味し、ヤマト政権との関わりや、地域の成り立ちを考えるうえでも欠かせない貴重な文化財といえます。特に前方後方墳は一般的な前方後円墳と異なり、独自性を想定させる地域の歴史には欠かせない遺跡です。

後方墳の頂き

頂きから東海大学越しに箱根方面を望む

10:13 北金目神社
古くは熊野社といい、江戸時代には北金目村の鎮守(ちんじゅ)であった。天正19年(1591)11月、徳川家康から朱印地2石を与えられている。
 本殿は、神社覆殿の内部に祀られている。平塚市内では唯一、神奈川県内でも数少ない春日造(かすがづくり)の本殿である。春日造というのは、奈良の春日大社本殿に代表される神社建築の一形式。
 建立年代は、江戸時代前期(17世紀中頃~後半)と推定され、平塚市内の神社建築では最も古いもの。
 天保12年(1841)に編纂された『新編相模国風土記稿』には「幣殿、拝殿、神楽殿等あり」と記されており、当時これらがあったことがわかる。現在境内に建つ幣殿・拝殿及び本殿を収める覆殿は、慶応4年(1868)に造られたもので、そのことを示す棟札(むなふだ)が残されている。

この中に春日造りの本殿が収められている。



内部にある春日造りの本殿の写真

横にあった灯籠
10:42 松前門から中に入る。円筒の建物は3号館

8号館1階で学食を食べる.2階には紀伊国屋書店が入っている。

11:38 学食を食べて散策開始。松前総長はケヤキが大好きで構内には1000本植えたとか、今は約500本程大きく育ち残っている。

噴水

メタセコイア並木

武道館内の柔道場の壁にあった大会優勝者の写真

柔道場  ここで山下氏などが練習をした。

武道館の前にある門。もとは水天宮にあった門を無償で頂いたとか。

13:00 東海大学を出て最後に向かったのは明治の歌人前田夕暮の生家跡。途中に小田急の車両が来たので慌てて撮影。

13:02 前田夕暮の生家跡

現・神奈川県秦野市にあたる大住郡南矢名村の豪農の家に生まれる。父は県会議員、村長を務めた厳格な人物であった。前田家は豪農で駅まで他人の土地を踏まづに行けたとか。


前田 夕暮(まえだ ゆうぐれ、1883年明治16年)7月27日 - 1951年昭和26年)4月20日)は、神奈川県出身の日本歌人明治から昭和期にかけて活動した。本名・前田洋造洋三とも)。長男の前田透も歌人であり、歌誌「詩歌」[1][2][3]を引き継いだ(『評伝 前田夕暮』前田透)。

尾上紫舟に師事。歌集『収穫』(1910年)で自然主義歌人として牧水と並称された。その後北原白秋らと「日光」を創刊。『水源地帯』(1932年)では、自由律短歌に傾くなど、生涯新境地を求めた。




13:13 東海大学前駅に向かう途中に出会ったロマンスカー


13:21 東海大学駅前到着し解散

天気も良く初めての東海大学見学。学食も食べられ満足。味はやはり懐かしの学食であった。


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