2024年1月28日日曜日

1月27日相模のもののふを訪ねて④ 実朝公の御首が辿った道を探して

 2024年1月28日日曜日8:50 曇り

昨日27日は秦野市観光ボランティアと歩く企画に参加。天気は風もなく快晴。

8:50集合。まずはバスで中庭バス停に向かい実朝公御首塚に向かう。

今日のスケジュール


9:00 首塚に到着。
1279年建保7年1月27日鶴岡八幡宮で行われた右大臣拝賀の式に出席した実朝が甥の公暁によって暗殺された日。公暁追討を命じられた武常晴が実朝の首を秦野の地に埋葬されたと伝えられている。
今回の企画は、武常晴が辿った道を歩くもの。

首塚の前でまさに式典が始まろうとしている。秦野市長も参加していると。


式典の邪魔にならないように始まる前に首塚にお参りして立ち去る。

9:09 梅が咲いてる

9:14 金剛寺
金剛寺は、もともと小寺でしたが、鎌倉時代に武常晴(つねはる)が3代将軍源実朝の御首(みしるし)を当寺に持参して埋葬したことに始まるといわれています。 退耕行勇(たいこうぎょうゆう)を招いて木造の五輪塔(今は県立博物館で保存、レプリカがある)を建て実朝の供養をしました。その後、実朝の法号金剛寺殿にちなみ、金剛寺と改めました。
1250年(建長2年)に、波多野忠綱(ただつな)が実朝の33回忌のため再興しました。本堂には、源実朝像が安置されています。
金剛寺には秦野市東田原出身の画家大津雲山の墓もあります。

本堂


阿弥陀堂を開けて頂き阿弥陀三尊像などを拝観。

「実朝念持仏」との由緒が伝承される木造阿弥陀三尊立像で、両脇侍の観音・勢至菩薩立像は、鎌倉幕府三代将軍源実朝の没後間もない頃に御家人波多野氏らを中心に供養のために造立されたものと推定されます。
 中尊の阿弥陀如来立像は、鎌倉時代中期の阿弥陀如来立像の形式に倣った室町時代後期から江戸時代初頭の作とみられ、ある時点で補われたものと推定されますが、歴史的・美術的意義に鑑みて、阿弥陀三尊立像として文化財指定にふさわしいとされることから指定されました。

カメラの調子が悪く、途中の寺山藤棚の石仏群、道永塚、御嶽神社の写真が撮れていなかった。

10:50 百番供養塔 矢倉沢往還の道標として残る石仏
西国三十三番・坂東三十三番・秩父三十四番計百か所の観音霊場の供養塔である。江戸時代には、この百番巡拝を行う人があらわれ、百番巡拝を記念し供養した塔。

11:01 右側は大山

11:01 加茂神社
『明治六年、井之明神社に、上乳牛鎮座の加羅古神社、下乳牛鎮座の八幡神社、才ヶ分鎮座の熊野神社、山谷鎮座の加茂神社、中野鎮座の白山神社、御門鎮座の牛頭天王社(現在は分祀)を井之明神社に合祀し、曽屋神社と改称した』[1]とされてゐる。合祀されたのちも地元(山谷)では維持しつづけたのだらう。

 境内にある、手水石には「嘉永四年」、鳥居には「昭和十八年四月八日建之」、社号標には「昭和五十八年四月吉日建立」と彫られてゐる。


12:25 権現山でランチ後東海大学前方面に向かう。途中の中野地区にある合祀されて今は神様がいない白山神社。

12:42 東海大学前駅から秦野駅に向かうトンネルに入る小田急線

同じ場所のトンネル前の線路

12:47 ロウバイ

12:59 大山と右側の山が高取山

13:21 東光寺
境内の入り口に秦野で2つしかない仁王門がそびえ立つ寺院。建造は1774年(安永3年)と伝えられています。
中に入ると薬師堂があり、薬師如来、聖観音菩薩像が安置されています。薬師如来像は鎌倉時代に作られた寄木造りで、左手に薬つぼをもっていますが、右手がないことから、別名「片手薬師」と呼ばれています。
秦野市内で仁王門のある寺院は、この東光寺薬師堂と蓑毛にある大日堂の2か所だけです
薬師堂




阿形の仁王像

吽形の仁王像




13:27 東光寺本堂


13:36 八声橋 看板がなければ全くわからない場所
三浦氏の家臣だった武常春(つねはる)は、公暁(くぎょう)によって最期(さいご)を遂げた源実朝の御首(みしるし)を得た後、波多野(はだの)氏の館をめざした。そして、この橋の下の清流で休んでいた時、夜明けを知らせるニワトリの鳴き声が8回響きわたり、館へ急がせたという伝説が残っている。

ここに川があったそうだ

13:41 東海大学陸上部駅伝選手のクラブハウス

14:05 東海大学前駅に到着


天気も良く充実した一日であった。カメラの故障が残念!

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