2024年1月10日水曜日8:30 快晴
今日は2024年初めての秦野市観光ボランティアと歩く企画。3月まであと6回だ。
七福神とは、大黒天(だいこくてん)、毘沙門天(びしゃもんてん)、恵比寿天(えびすてん)、寿老人(じゅろうじん)、福禄寿(ふくろくじゅ)、弁財天(べんざいてん)、布袋尊(ほていそん)の七つの神様の総称です。
「七難即滅、七福即生」の説に基づくように、七福神を参拝すると七つの災難が除かれ、七つの幸福が授かると言われています。七福神の信仰は、室町時代の末期のころより生じ、当時の庶民性に合致して民間信仰の最も完全な形となって育てられてきました。特に農民、漁民の信仰として成長し、現代に今も生き続けてきたのです。
天がつく大黒天、毘沙門天、恵比寿天はインドの神様。
寿老人、福禄寿、弁財天は中国の神様
唯一日本の神さんの布袋尊
徳川家康の政治参謀でもあった上野寛永寺の開祖天海僧正が、寿命、富財、人望、清廉、威光、愛敬、大量(大きな度量)を七福とし「為政者のあるべき姿」と説いた。日本古来の守り神・恵比寿と、大陸から渡ってきた大黒天、弁財天、毘沙門天、布袋尊、福禄寿、寿老人を合わせた七福神を信心することで七つの福が備わるとして、七福神信仰が広く民衆にも広まったという。
恵比寿=清廉 : 釣り竿を持ち、大
今日のスケジュール表
8:45 小田急線秦野駅南口を出発
8:50 曹洞宗太岳院着 福禄寿に参拝
福禄寿は、名前は、幸福の福、身分をあらわす禄、寿命を表わす寿の三文字からなり、中国、道教の長寿神。南極老人星の化身であり中国の村や町に住み、人々の信仰を集めたといわれる仙人である。長い頭、長い顎鬚、大きな耳たぶをもち年齢 千歳という。長寿、幸福の徳を持ち、鶴と亀を連れて、左手に宝珠、右手に巻物を括り付けた杖をもつ姿が特徴である。招徳人望の神様として信仰されている。
平成19年建築家安藤忠雄の設計による本堂
富士山が見えるように西向きに立つ門。
9:25 八幡神社
創立年代は不詳。往時は八幡宮と称え、源頼朝の頃には現位置の鶴疇山(つるとしやま)に祀られていました。 ご神体は馬乗の像で、鎌倉将軍の尊崇篤く、相模三鶴八幡の一つとされたと言われています。
境内には、南はだの村七福神と鶴亀めぐりの「親子鶴の親鶴」が設置されています。
元大竹村は、鶴疇山(つるとしやま)八幡宮の氏子でしたが、正保年間尾尻村より分村、桃山時代より尊崇していた御霊社を嶽神社と改名し、独立氏子となりました。
小鶴
10:22 県立秦野総合高校に隣接してある立野緑地のシンボル
10:33 高校を西側に出たところから始まる渋沢丘陵の尾根道からみた富士山
10:40 尾根道からみた丹沢山系 塔ノ岳方面
同じく大山方面
10:58 震生湖
湖を一周する
対岸からみた景色
11:14 弁財天
弁財天は、七福神の中で、唯一の女神で、元はインド河(水)の神であったが、やがて音楽の神、言語の神となり日本に伝わった当初は、弁才天と呼ばれた。その後、財宝・芸術に関係深い吉祥天の性格が吸収され弁財天といわれるようになり、財宝を授けてくださる神へとなったものである。知恵財宝、愛嬌縁結びの徳があるといわれている。
日本三大弁財天の総本山である、奈良の天河弁財天の分霊を頂く神社です。
学問、技能、音楽の上達に功徳があり、また女性には愛嬌を授け、美人となり良縁を得、子宝が授かると言われます。
パパイヤの木。秦野市では名産にしようとしているとか。
梅がっ咲いていた
12:40 昼食後の最初は、天台宗西光寺
天文年間(1530)中興と言われています。明治以前は旧平沢村総鎮守御嶽、八坂神社別当を歴代務めました。本尊は弥陀三尊(阿弥陀・観音・勢至)で、脇本尊として不動三尊像があります。また境内には市指定保存樹木のイトヒバがあります。
山門には両にらみの龍がいます。一見の価値がありあます。
手前から見た龍
潜ってから見た龍
藁ぶき屋根の鐘楼
山門
南はだの村七福神と鶴亀めぐりの「毘沙門天」が設置されています。写真を撮るのを失念。残念。
毘沙門天は、仏教の護法神であり、すべてのことを一切聞きもらさない知恵者という意味です。多聞天とも称します。仏教では四天王の一尊で須弥山の北方に住し、北方を守る護法の善神とされました。その形像は甲冑を身に着け、憤怒の相をし、左手宝塔を捧げ、右手に宝棒または鉾を執り、二夜叉(鬼)の上に座ります。武将形のまま七福神の一つに数えられ、福徳を授ける神として民間に信仰されました。七福神の中では戦い・勝ち運の神様です。江戸時代は三嶽蔵王社と呼ばれ、平沢村の鎮守であった。拝殿は1976年(昭和51)に新築されたが、本殿は1693年(元禄6)の建築である。古くは、1609年(慶長14)と1643(寛永20)の修造棟札建築が残っている。
神社には、1742年(寛保2)に奉納された「源頼政鵺退治図」の額がある。また境内にある2本の大ケヤキは秦野市指定保存樹になっている。
《恵比寿》
境内には南はだの村七福神と鶴亀めぐりの「恵比寿」様があります。創立年歴は不詳ですが建久三年(一一九二)の頃より神社前の参道を御嶽道と称し、平沢村の鎮守であった。境内には秦野市文化財指定木である樹齢八百年余りの大けやきが二本あります。慶長十三年(一六〇八)踊宮鈴張の地に家康公が鷹狩りに来た際に、当社に参拝、社殿の改修を命じ、翌年に改修しました。昭和五十一年に本殿を除き全社殿を木造銅板葺としましたが、本殿は慶長年間に改修された当時のものです。
本殿内部
七恵比寿は、福神中で唯一の日本の神様。 いざなみ、いざなぎの二神の第三子といわれ、満三歳になっても歩かなかったため、船に乗せられ捨てられてしまい、やがて漂着した浜の人々の手によって手厚く祀れれたのが、信仰のはじまりと伝えられている。
左手に鯛をかかえ右手に釣竿を持った親しみ深いお姿の、漁業の神で、特に商売繁昌の神様としても信仰が厚い。
日馬富士の額に因んで結ばれたと。
平沢御嶽神社(秦野市平沢1223)の神楽殿に、元横綱の日馬富士さんが優勝したことを祝して作製された額がお目見えした。これは両国国技館に掲げられていたもの。優勝額は国技館の東西南北にそれぞれ8枚ずつ掲げられていて、今回若隆景関と御嶽海関の優勝額が新たに掲げられることに伴い降ろされることになった2枚を、横綱の名付け親である、出雲大社相模分祠と同神社の宮司を務める草山清和さんが譲り受けた。 額は2012年大関時代に全勝優勝を果たした際のものと、2016年に横綱として優勝した際のもの。高さは3mを超えるほど大きく、両神社の崇敬会の会員が天井の梁に留めるなど作業を行い、設置された。あわせて日馬富士さんが所属していた伊勢ヶ濱部屋の親方のまわしも飾られている。草山宮司は「日馬富士は、祖国モンゴルと日本の懸け橋になろうと教育分野を中心に、今でも立派に頑張っています。神楽殿の扉を開けている時に、この迫力ある2枚をみていただければ」と話す。
八坂神社の本殿は、旧御嶽神社の本殿をしようしている。
13:01 出雲大社相模分祀
出雲大社相模分祠は、明治21年(西暦1888年)に、島根県御鎮座の「出雲大社」第80代国造・千家尊福公に請願して、当地累代の神職であり、報徳家であった草山貞胤翁が、出雲の大神の御分霊をこの地に鎮祭申し上げ、大国主大神の御神徳を関東地方に広めるための要処としたのを創まりとします。
当初の御鎮座地は現社地から離れた渋沢峠でしたが、昭和50年(西暦1975年)に現社地に御遷座なさいました。
以来、御社殿の増築、さらに境内地を拡張し大規模な植樹を施す等、益々その尊厳さを増して今日に至っております。
大黒天は、大自在天の化身ともいわれ、大国主命と神仏習合したものである。
一度仏となったが、人々に福徳を授けるために再びこの世に現れたという。大地を掌握する神様(農業)でもある。大きな袋を背負い、打出小槌をもち、頭巾をかぶられた姿が一般によく知られていて財宝、福徳開運の神様として信仰されている。
千年の杜内には、杜の守り神として「龍蛇神」をお祀りしています。
龍蛇神とは大国主大神さまの御使神で、「縁結びの神」「幸福を授ける神」として慕われている神様です。
境内西側に位置する「千年の杜」は、平成19年6月3日に約1700人の手によって植樹された「ふるさとの木によるふるさとの森」です。国の内外で「本物の森づくり」を続ける横浜国立大学名誉教授・宮脇昭先生のご指導のもと、シイ・タブ・カシ類等の照葉樹を中心に、ヤマザクラやイロハモミジ等の日本古来の樹木が混植・密植されています。 杜の中には湧水があり、メダカやドジョウ・ホタル等が生息しています。多くの参拝者がお水取りに訪れる憩いの場になっています。
13:24 曹洞宗浄圓寺
本堂再建棟上は寛政12年(1800)、北条氏綱に仕えた和田兵庫の子、和田石見が大永年間に開いた寺です。この和田家は現在も存続しています。本尊は室町時代後期頃の作と言われる薬師如来です。
中国の唐末に実在した禅僧と言われます。一般的に描かれるような太鼓腹の姿で、常に袋を背負っていたことから布袋という俗称になったようです。袋には日用品など一切合財が入っているとも、「堪忍袋」であるとも言われます。肥満体の布袋は広い度量や円満な人格、また富貴繁栄を司るものと考えられています。
本堂は前一間が吹放しで、その吹放し・礎磐・湾曲繋虹梁は黄檗様の影響があります。 また黄檗様の影響がある県内唯一の建築物です。中央鏡天井には雲竜絵の見事な天井絵があります。写真の様に黄檗宗の影響を受けた造りが興味深い。左右に突き出たようにものがある。
本堂正面のガラスドアの模様も面白い
境内にあったロウバイが満開だ
13:39 白笹稲荷神社に向かい途中にあった長屋門。左側には、今でも実際に住んでいる。貴重な建物だ。
長屋門右側の建物
長屋門
13:47 最後の白笹稲荷神社
創建の年代については詳らかでありませんが、この地先住の古代水田農耕民族は、その水田耕作に不可欠の水源に、また人間の生存の礎となる衣食住の源としての「水源(みなもと)」に、清らかに神奈備を覚出しました。 「宇迦之御霊」と仰ぐ稲魂・穀霊を祀り、「保食神」、「生産の神」として信仰し、現・白笹稲荷神社の前身としての白篠稲荷の小祠を祭祀してきました。 秦野は古代大和豪族・秦氏にゆかりの地であるといい、『風土記』によれば、稲荷信仰を広めたのも秦氏で、秦公(はたのきみ)が山城国に「伊奈利(伊奈里)」を」祭祀したことに始まるといわれています。 天保12年(1841)に成立した『新編相模風土記』には、「稲荷社 白笹稲荷と号す。祭神蒼稲魂命。例祭二月初午の日。及六月二十八日なり。拝殿あり。老松 園一丈。一株を神木となす。末社 明王権現 子安明神」と記されています。 江戸時代初頭の頃の奉納物が残存しており、すでに民衆の信仰の篤かったことがうかがわれ、江戸時代中期には正一位の神璽を再祀し、屋敷神として早くも独立し、神社独自の定例の社頭訓話などのあったことも知られています。時代が下っては献詠歌などが定期的におこなわれ、文芸活動なども活発だったことがしのばれ、崇敬者の信仰により支えられて現代に及んでいます。
寿老人は、道教の神仙で、中国の伝説上の人物‐老子の化身とされます。また南極老人星(カノープス)の化身ともされます。酒を好み、頭が長く、白髪姿で赤い顔をした長寿の神とされます。不死の霊薬を含んでいる瓢箪、または不老長寿の桃を持ち、長寿と自然との調和のシンボルである鹿を従えた姿で描かれることが多いです。
神職の計らいで本殿内の天井絵を見せて頂いた。
日本の歌舞伎絵の第一人者である後藤芳世画伯(院展特待)が、七年の歳月をかけて描き上げた天井絵です。 格天井150枚の龍神様、風水四神や宝尽くしの図は神々しい赤誠の作です。
風水四神
中国から日本に伝わった四神獣は、もともとは邪気を払い、よりよい環境を整えるために祀られたもの。東の青龍、南の朱雀、西の白虎、北の玄武の四神獣をそれぞれが司る方角に置くことによって、悪霊を追い払いさまざまな福徳を授けてくれると伝えられています。
東の青龍は、東の河川に住み太陽の昇る東方を守ることから、金運を呼び込み商売繁盛をもたらすとされています。また「龍」は龍神とあがめられているように、とてもパワフルなので災いを振り払って成功、勝利をもたらしてくれます。
南の朱雀は、5色の羽を持ち、火を操る美しい鳥といわれる不死鳥です。南の低地に溜まる大きな池に降り立ち、その大きな翼で、降りかかる災いや悪霊を追い払い、幸福と家運繁栄をもたらします。また人気運にも関係があるので恋愛が成就するともいわれます。
西の白虎は太陽の沈む西方を守る後門の守護神。西の道を走り、睨みを利かせて邪気を遠ざけ、幸せを呼び込むとされています。中国では虎は百獣の王と伝えられ、虎が500年生き抜くと霊力を得て白虎になるとされているので、白虎は特別な神と考えられています。
北の玄武は北の大地にある大きな山で逆風の盾となり、繁栄と長寿をもたらすとされています。玄武は硬い甲羅を持つ亀と、それにまとわりついた蛇が一体となった姿をしていることから、力強く運を切り拓いて繁栄するといわれています。
このように、四神の相応する土地に都市や家を建てれば気の流れが整い、幸に恵まれるとし、土地選びの目安にされてきたのです。
南の玄武
西の白虎
4隅には狐
南の朱雀
東の青龍
床に寝転んで龍を撮る
ヒカリモは光を受けて黄金に輝く希少な藻で、一定期間発生します。金運の御利益があります。
シーズンではないので!
14:45 秦野駅に向かう途中にあった湧水
水神さん
湧き出ている場所
水神さんの隣に咲いていたミツマタ(紙の原料)
14:50 駅に着き解散。約2万歩のウォーキング。天気も良く満足でした。
✌️
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