2024年11月9日土曜日

11月9日大雄山最乗寺ジョギング

2024年11月9日土曜日16:00 快晴

今日は天気も良いので大雄山最乗寺までジョギングに出かけた。前回は本堂までだったので今回は奥の院まで。 9時15分頃出発。

大雄山最乗寺は、曹洞宗に属し全国に4000余りの門流をもつ寺。
御本尊は 釈迦牟尼仏、脇侍仏として文殊、普賢の両菩薩を奉安し、日夜国土安穏万民富楽を祈ると共に、真人打出の修行専門道場。

開創以来600年の歴史をもつ関東の霊場として知られ、境内山林130町歩、老杉茂り霊気は満山に漲り、堂塔は30余棟に及ぶ。

10:05 仁王門に到着(標高115m)。自宅から約6000歩。 

参道の3丁目に位置する、朱色の門「東海法窟」の額と「最乗寺専門僧堂」の聯(れん)を掲げてあり、阿吽の金剛力士像が安置されている。 




15:11 天狗の小径をスタート。バスの折り返し点まで約1.9キロ

仁王門より3キロメートル。車道とハイキング道「天狗の小径」があり、神奈川県の天然記念物に指定されている杉並木が参拝者を迎える。杉並木は樹齢450年以上のものから600年を数えるものが主流で、更に車道両側には10、000株のあじさいが植えられ「大雄山あじさい参道」と呼ばれて花の見頃は、6月中旬から7月中旬である。


階段(段が連続している階段)は全部で16ある。


10:27 バスの折り返し点の「道了尊」バス停(標高289m)。ここまで8300歩。仁王門からは16分2300歩。標高差178m
バス停から参道を通り本堂へ

 三門到着

平成22年にお寺を建てた、了庵慧明禅師が亡くなってから600年を記念するために建てられて、平成15年10月27日に完成した門です。
門の形は2階建てで一階に屋根がある門で名前は二重門といいます。高さは22mの高い門で二階には、22体の仏像が祀られています。


21910:34 本堂前の広場(標高334m)に到着  仁王門からの標高差219m

聖僧文殊菩薩を祀るところから僧堂と云われ、修行僧が日夜、坐禅弁道に励む根本道場である。

 本堂

昭和29年再建。間口15間、奥行き12間。昭和を代表する仏教建築家、伊藤忠太氏の設計である。御本尊は釈迦牟尼仏、脇侍に文殊・普賢両菩薩を祀り、日夜国土安穏が祈念され、朝晩の勤行や当山山主が修行僧に対しての説法の場である。

10:41 奥の院手前の最後の階段はキツイ!

10:44 奥の院到着 仁王門からの標高差316m、広場からの標高差97m。自宅から9600歩約1時間半。

鬱蒼とした老杉に囲れた350段余りの階段を登ると、御本地十一面観世音菩薩(当山守護道了大薩埵の御本地)が奉安されている奥の院につく。大雄山のもっとも高い所(標高431m)に位置するが沢山の参詣者がこの階段を登られてお参りに来る。 


作法の字の上に虫が!

疲れました!

この階段を上り下りしている若い人がいた!

途中にあった巨木

天狗の像

山々を守護し、人々から畏れ敬われて来た天狗。日本には数々の天狗に関する伝説がありますが、最乗寺と天狗との関係は、開山の歴史に由来しています。境内には様々な天狗様や、天狗の下駄という意味合いで、世界一と言われる下駄をはじめ、大小さまざまな下駄が奉納されています。

了庵慧明禅師の弟子だった道了尊者は、師匠の了庵慧明禅師が最乗寺を建立することを聞いて、近江の三井寺から天狗の姿になって飛んできて、神通力を使って谷を埋めたり、岩を持ち上げて砕いたりして寺の建設を手伝いました。そして了庵慧明禅師が75歳でこの世を去ると、寺を永久に護るために天狗の姿に化身して舞い上がり、山中深くに飛び去ったといわれ、以来、寺の守護神として祀られています。


11:47 開成町に戻りました。ここは富士フィルムの研究所。立派です。

12:02 自宅に到着。往復で約19400歩、2時間45分のジョギングでした。奥の院の階段はきつかった、疲れた。

 

2024年10月27日日曜日

10月26日南足柄市観光ボランティアと歩く ~ 悪犬退治と笹子地蔵伝説を訪ねて

 2024年10月27日日曜日9:40 晴れ

昨日は久しぶりに南足柄市観光ボランティアの会に参加した。天気は曇りで約22千歩(自宅から自宅までの歩数)ほど歩いたが、楽しい会であった。 

9:30大雄山線岩原公民館集合であったので、自宅の開成町を8時前に出た。

7:48 小田急線開成駅 

7:52 小田原市との境近くにある曽比稲荷神社で今日の安全を祈願
源義家ゆかりの神社とか

8:06 途中の田んぼ道からみた富士山  手前は矢倉岳と富士フィルムの研究所
大山方面
北側の高松山方面  富士フォイルの研究所が見える
8:22 狩川からみた矢倉岳
8:24 大雄山線岩原駅 無人駅
隣の塚原駅(今日のウォークの解散地点)が見える

9:32 集合後9:30出発。裏手にある八幡神社

平安時代、源頼義が陸奥守として奥州へ赴任する際当地に建立したと伝わる.

祭神は品陀和気命(ホンダ7ワケノミコト)。昔、黄金八幡宮と呼ばれていたとか。

9:34 神社の横を抜けて本殿へ

9:36 本殿

八幡神社の本殿の裏に古墳(径約35m、周溝がめぐる円墳。神社本殿により東半分が消失し、石室の石材が露出している。築造時期は6世紀と推定)があり、本殿の裏は削られてガケ状になっていて中腹に石材が露出している。また、葺き石?のような小さな石も見える。


長寿の心得を配布された
本殿に収められていた歴代の人形(霊魂は抜かれています)。今は霊魂が込められた人形が収められています。

10:26岩原城跡

応永二十三年(1416)、上杉禅秀の乱。鎌倉公方足利持氏に対する前関東管領上杉禅秀(氏憲)による反乱が起きた。

 この反乱は関東のみならず京都の将軍義持に対する反乱までもが画策されていたという。禅秀は十万の大軍を結集して鎌倉を襲った。公方持氏はかろうじて鎌倉を脱出し、駿河の守護今川範政を頼った。

 この逃走の過程で公方持氏は一時的に駿河国駿東郡(御殿場市、裾野市、小山町)の国人大森頼春の館に潜んでいる。後日、頼春は禅秀討伐の今川勢の先鋒となって活躍した。

 戦後、頼春は鎌倉に復帰した公方持氏から戦功を賞され、相模国足柄郡を与えられた。ここ岩原城の築城時期についてはあまり明確でないが、この頃であったとも思われる。

 頼春の後、憲頼が西相の地を継いだ。永享の乱(1438-39)、享徳の乱(1455-83)と関東は慢性的な戦乱状態が続くが、憲頼は一貫して鎌倉公方の忠臣として勢力を振るったようである。大森氏の本拠地として小田原城が築かれたのもこの頃であったとみられている。

 一方、頼春の子で憲頼の弟である氏頼は管領上杉方に付いて公方足利方の憲頼と争ったようである。

 文明十年(1478)、憲頼(応仁元年/1467死去とされる)の跡を継いだ成頼が上杉方の太田道灌によって滅ぼされ、西相模は氏頼とその子実頼のものとなった。氏頼は実頼を小田原城主とし、自らは隠居して奇栖庵明昇(きせいあんみょうしょう)と名乗ってここ岩原城に入った。

 隠居したとはいえ氏頼こと奇栖庵の存在は大きく、太田道灌亡き後の扇谷上杉家内においては三浦氏、曽我氏と並び、扇谷三家と呼ばれるほどであった。

 当時、上杉氏は扇谷家と山内家が争い(長享の乱/1487-1505)を繰り返していた。こうした絶え間なく続く争いに対して、氏頼は主家である扇谷上杉定正に諌言の書を表した。「大森教訓状」と言われるものである。

 しかしながら、両者の争いは氏頼の諌めも空しく、果てしなく続いた。

 明応三年(1494)、戦乱の最中、氏頼は七十七歳で没した。相模進出の機会を窺がっていた伊豆の北条早雲も氏頼の存命中は手が出せなかったといわれている。西相の名将氏頼の死の翌年、早雲は機略を駆使して小田原城を奪取した。

 この時の小田原城主は実頼の弟藤頼で、まんまと早雲の謀計に引っ掛かり、小田原城を抜け出してここ岩原城に逃げ込んだ。しかし早雲の追撃に耐えられず、岩原城も落城してしまった。藤頼はさらに真田城(平塚市)に逃れたが、ついに自害して果て、西相模を支配した大森氏は滅びた。

北条早雲の半生を描いた司馬遼太郎の作品「箱根の坂」にも“岩原の館”として登場します。遺構は2つ郭と堀跡が確認できますが、殆ど残っていません。昭和40年代前半(1960年代後半)まで空堀が残存していましたが、宅地造成によって姿を消しています。遺構は姿を消しましたが、城址周辺には寄栖庵墓ほか大森一族にまつわる史跡も多く残っています。近年、城西側尾根に残る沢を竪堀遺構とする説もあり、沼田城と同様に戦国期に使用していた可能性があります。本格的な発掘が望まれる城跡です。

10:25 ユートピア農園のヒマワリ

「夏りん蔵」という品種です。 種を蒔いて40日で見頃を迎えます。
「ずらすビジネス」の一つであり、季節をずらした取り組みです。茎や葉は緑肥として土に植え込みトウモロコシ等を育てているとか。




隣のザルギク(西洋菊マム)
ホワイトコーン(皮まで食べられると好評とか)

11:19 別荘地として開発されたグリーンヒルの中にある笹子地蔵

笹子地蔵は下記写真のように地蔵堂と周囲の石碑などが建っており、藤和グリーンヒル住宅地の中に位置している。
曹洞宗玉峯山長泉院が管理しており、住宅地の有志により整備され今日に至っている。
笹子地蔵霊験記として笹子地蔵を研究している金田芳明によれば、次のようなことが判明。

  • 長泉院に伝わる「悪犬退治と笹子地蔵」という伝説
  • 長泉院の中にひっそりと存在する地域の守護神「金比羅堂」の存在
  • 金比羅堂・笹子地蔵・三竹の御嶽神社を一直線で結ぶレイラインの存在
  • そのレイラインが秩父の三峯神社に達することで、修験道の聖地として秩父とも深く結ばれていたという事実
  • 古事記に出てくる日本武尊伝説で日本武尊が国津神が化身した白鹿と遭遇した場所は笹子地蔵のある場所付近だった可能性が存在すること

笹子地蔵を研究した結果、地蔵堂で祀られている鑵主(かんす)石は秩父の三峯神社と同様に狼を神の使いとして祀っていたものと判断。悪犬退治に書かれているような人々を苦しめた狼で無く、鎌倉時代までこの地域でひっそり神として祀ってきた狼を鑵主石に封じて供養する意味を込めて笹子地蔵として永きにわたって祀られたきたと推理。

鎌倉時代以降は天狗様を地域を守護する神として金比羅堂に祀られたのです。笹子地蔵にある石碑群近くの天狗石も天狗伝説により永きにわたって信仰を受けてきました。宝永大噴火で小田原藩領が荒廃すると、僧の姿で夢枕に現れ笹子地蔵お参りに導かれた霊験話が多く伝わり、江戸時代中期以降は天狗石を笹子地蔵としてお参りすることが盛んになったのです。

笹子地蔵は秩父の三峯神社などと繋がる修験道の神様と金毘羅大権現の化身であるお天狗様によって成り立っています。
地蔵堂で鑵主石にお参りし、湧き水近くの笹子地蔵由来碑に手を合わせ天狗石にお参りすることでそれぞれから御利益を受けることができます。


笹子地蔵なのに神様というのは変ですが、仏教的には修験道の神様は地蔵菩薩の化身、天狗様は観音菩薩の化身として考えることで合致いたします。


昔、この辺りに板屋の長者といって大変お金持ちのひとがいました。ある年大きな地震(箱根山の噴火か)が起こり、その時大きな石(噴石)が山の方から転がり落ちてきて娘を下敷きに押しつぶしてしまった。長者は悲しんで娘の供養のため地蔵尊をお祀りしたと。
娘を押しつぶした大きな石(安山岩)
石を割るための矢穴の跡が分かる
笹子地蔵由来碑の右側奥にあるのが天狗石
湧き水

石を割るための矢穴が開けられているが工事はストップした石。             途中で天狗石に矢穴が彫られているのは石垣として利用することが目的だったと断定できる。石割間近の矢穴の状況から、余程のことがあったので工事はストップしたのだろう。近くに石垣があることから、天狗石を供養するために石垣の上にお堂が建てられたと考えられる。

工事が中断したと思われる理由

寛永9年(1632年)稲葉正勝が小田原藩主(85000石)として転封。稲葉正勝は母が春日局で将軍徳川家光の信任厚く、幕府の支援を得て小田原城を総石垣の城とするために改修工事を始めた。笹子山周辺には石垣に利用できる巨石が多く存在し、天狗石も選ばれたのであった。殿様からの命令には誰も逆らえず、矢穴が彫られていった。そこへ藩主稲葉正勝が吐血したという知らせが入り、工事中断の命令が出た。寛永10年(1633年)夏のことである。翌年稲葉正勝は38歳の若さで死去。次期藩主に天狗様の祟りが及ぶことを危惧した小田原藩は、天狗石を供養することにした。小田原城の石垣工事を担当している石工を派遣し、石垣と天狗岩を供養するお堂を設置した。

 小田原城の石垣と同様に反りが設けられているのが特徴。これにより天狗の祟りは無くなり、藩主稲葉正則は健康にも子供にも恵まれ出世した。

  

 石垣の跡か

鑵主石  

板屋窪周辺の山を荒らし回っていた悪犬を、古くからの土着の神である金比羅大権現の分身が黄色大権現として悪犬退治をする伝説があります。黄色のふくを着た旅僧(黄色大権現)がその悪犬を退治してこの地蔵堂に引きずってきたら石になってしまったのが鑵主石

黄色大権現は天狗の姿をしており、しばらく天狗石に座って休んだ後に飛び去っていったのですが、天狗石は湧き水の近くにある笹子地蔵の上にある巨大な石ではないかと思われます。

横に80cmほどの穴が開いている
 耳先という人が書いた銘文が書かれた板碑
12:19 板屋窪にある碑
双体地蔵

馬頭観音
安産祈願の馬頭観音。お腹のあたりを石で擦りこすり取れた粉を食べてお参りしたとか。遠くからを祈願に多数の妊婦の方が来られたとか。


12:37 ランチは長泉院で

曹洞宗寺院の長泉院は、玉峯山と号します。長泉院は、岩原城主大森信濃守氏頼(寄栖庵)の招請により、大寧和尚(文明2年1470年寂)が岩原薬師堂の地に清泉院と号して開山、大森信濃守氏頼の子息大森実頼(法名清泉院可安道印)が開基となり、当地へ移転させて長泉院と改号したといいます。大森氏廃絶後には、松田尾張守憲秀・小田原北條氏より寺領安堵を受け、徳川家康の関東入国後には代々小田原城主より寺領安堵状を受領していました。

道祖伸



センペルセコイアの大木

長泉院の裏手にある金毘羅堂(写真はボケて失敗、残念)の裏手にある石組

金毘羅堂の中には不動明王像が祀られている。長泉院ができる前にこの地に黄色を尊ぶ地主神即ち黄色大権現を祀る金毘羅堂があった。

13:35 長泉院へ行く急坂
龍門橋の上にある龍


長泉院の正門

14:21 長円寺

長円寺は、順的(永正8年1511年寂)を開基として、僧侶海關が天明3年(1783)創建したといいます。長泉院の隠居寺。

新編相模國風土記稿による長円寺の縁起

山王山と號す(本寺前に同じ:津久井縣根小屋村功雲寺末)、開基順的(永正八年寂す、)天明三年僧海關此地に起立す、中興察道(文化二年寂す)本尊釋迦、
【寺寶】
△刀一振(三折す、寺傳に大森彦七が帶せしなりと云、今は金刀明神と崇め、瘧病を患る者祈願すれば効驗ありと云、境内に石一顆あり、高一尺、幅三尺許、彦七この刀にて貫きしと傳へ、今に其刀痕と覺しき跡見ゆ、)
△山王社(新編相模國風土記稿より)

彦七おろち退治という伝説に出てくる刀は名刀で石でも突き刺すことができた。その突き刺したといわれる石がこの石。

この先の塚原駅で解散。その後歩いて帰宅。楽しく歴史や伝説に触れるウォーキング(約22千歩)であった。