2023年6月20日
今日は秦野市観光ボランティアと歩こう!に参加。テーマは矢倉沢往還番外編「文命堤とジャラカンダ・アジサイ」
8:05 JR東海の御殿場線松田駅スタート。次の東山北駅で下車。
山北高校の学生で4両車両は一杯だ。久しぶりにラッシュ感を味わう。
JR松田駅
8:22山北高校手前にあった碑
8:27尺里川と酒匂川が合流する地点
8:45般若院着
真言宗東寺派寺院の般若院は、室生山智積寺と号します。般若院は、波多野遠義の二男で河村城主の河村筑後守秀高が菩提寺として承安2年(1172)年小名湯坂に創建、文明年間(1469-1487)に当地北側に移転し、日圓(文明18年1486年寂)が中興開山したといいます。武田信玄の小田原攻めや、上杉謙信の小田原攻めにより寺地荒廃、天正8年(1580)に室生神社を中川村から後方の丸山山上に遷座させ、山号を惠華山から室生山と改めています。江戸時代初期には3度の火災に遭い、万治元年(1658)当地(華蔵院屋鋪)へ移転し諸仏具・堂塔を整備したといいます。
唯念上人による字体で彫られた「南無阿弥陀仏」唯念上人(ゆいねんしょうにん)は、江戸時代末から明治初期に活躍し、箱根山麓の周辺地域の民衆に念仏を広めました。上人は各集落を回りながら、自らの書による名号「南無阿弥陀仏」を渡し、念仏講(蓮華講)を組織しました。講の人々は信仰のあかし証として、唯念上人の書をもとに「唯念名号碑(ゆいねんみょうごうひ)」の石碑を集落内に建立しています。庚申塔(こうしんとう)
庚申塚(こうしんづか)ともいい、中国より伝来した道教に由来する庚申信仰に基づいて建てられた石塔のこと。庚申講を3年18回続けた記念に建立されることが多い。塚の上に石塔を建てることから庚申塚、塔の建立に際して供養を伴ったことから庚申供養塔とも呼ばれる。
文中に出てくる「古義真言宗」とは、
真言宗の一派。正応元年(一二八八)、根来寺(ねごろじ)の僧頼瑜が大日如来の加持身説法(かじしんせっぽう)の新義を唱えたのに対して、高野山に従来より伝えられてきた本地身説の古義を主張した覚海、道範らの説、およびそれを奉じる一派をいう。高野山金剛峯寺(こんごうぶじ)が総本山で、仁和寺、大覚寺を大本山とするが、その末社はおよそ五〇〇〇に及ぶといわれる。古義派。
奥州河村氏とは、文治元年(1185)の奥州藤原氏の討伐に参陣を許されて、同国阿津賀志山の戦に功をたて、戦後の論功行賞で北上川東岸一帯と茂庭の地、そして摩耶郡の三ヶ所に所領を賜った。その地に土着した河村一族をいう。
9:02東光院着〇福聚山医王寺といい、般若院と同じ古義真言宗の寺で、金子村最明寺の末寺である。天文十六年(一五四七)の草創と伝える。開山開基は伝承していない。(「山北町史通史編」より)
〇聳え立つ丹沢の山々を背後にし、関東では墓相寺として屈指の名寺院。川端康成公ゆかりの寺でもある。院内すべての墓は墓相学に基づいて建てられている。
〇丹沢山地の塔ノ岳(尊仏山)とゆかりが深い山北町岸の東光院(東寺真言宗、牧田晃潤住職)に姉妹の尼僧がいる。2人は住職の娘で姉・憲祥さん(27)と妹・嬡華さん(25)。4月22日に開かれた「秦野丹沢まつり」に僧侶として参加。登山客を山門にいざなう山伏に扮して先達の勤めを担った。登山客の安全を祈願する行事は5月にもあり、東光院は丹沢登山の安全に欠かせない存在だ。
如意輪観音の形は珍しいとか東光院参道 お参りはせず先に進む、残念!
9:15 岸(地名)にある河村館跡に向かう途中に国道74号線沿いにあった碑群。
双体地蔵 右側のは男性が髭を生やし女性は貴族的な容姿両者ともにこやかに笑っている。
尚、左の双体地蔵は昭和の作。
庚申塔坂を上っていった途中にある河村館碑
河村氏の発祥の地は、相模国(神奈川県)足柄郡河村郷である。藤原秀郷の後裔で、相模の武士波多野遠義の子秀高から始まる。秀高は父から同国足柄郡上河村郷などの所領を譲られ、そこを本拠として河村氏を称した。本宗の波多野氏は源氏に従っていたが、秀高の子義秀は源頼朝の挙兵に応じなかったため、本貫地を失い大庭景義の計らいで斬罪を免れた。
余談だが、名古屋市の河村市長は自称河村一族とのこと。
9:45途中にあった南原古墳群の説明版
9:47 文命西堤にある岩流瀬地蔵尊
〇文命堤とは、山北町との境にある。左岸の山北町側にある岩流瀬堤は西堤、南足柄市側の右岸にある大口堤は東堤とされ、富士山宝永噴火後の1723年に江戸幕府8代将軍徳川吉宗の命で田中丘隅が整備に着手。3年後に復旧工事が完成した。
〇富士山の宝永噴火により酒匂川も川床が浅くなり大洪水を繰り返した。その復旧のため江戸時代に治水工事を命じられた川崎の名主田中丘隅(きゅうぐ)は五年をかけて大規模な土手の修復などをし、その後も後継者が努力を重ねて現在の豊穣な足柄平野となった。
丘隅は中国の治水の神である「文命」を祀る文命宮をつくり、また酒匂川流域の氾濫が集中した六か所に地蔵尊を祀り治水を祈願した。この大口川丈地蔵もそのひとつである。
近くの新大口橋の上から見下ろすと、水の勢いを弱めるために利用された千貫岩が見えるが、その大きさには圧倒される。いつ訪れるかわからない水害への備えの大切さを、お地蔵さまはそのどっしりとしたお姿で、後世の人々に伝えている。
六か所に川丈(かわたけ)地蔵尊を祀ったとあるうちの一つである。
六か所の位置
田中丘隅が建立した碑
10:03 岩流瀬(がらせ)橋のそばにある説明版
10:09 千貫岩
自然の地形と人工の構造物を組み合わせ、まっすぐ流れていた河川をジグザグに流れるよう「改造」した。氾濫を繰り返してきた酒匂川に対する人類の叡智が、文命堤)に集結されている。酒匂川はこの自然の千貫岩()だ。岩千貫岩に当たるように誘導され、急カーブしてくる。
千貫岩10:10 倒産した大山豆腐のオーナーが植えさせた世界三大花木のジャカランダ(ノウセンカズラ科)。日本では熱海のお宮緑地にもあるらしい。
撮りすぎたかな!と反省。
場所を変え新大口橋の上から撮ったジャカランダ
橋から撮った対岸の千貫岩。
千貫岩
新大口橋の袂にある説明版。ガイドさんはよくまとまっていると評価していた。
10:38 新大口橋を越えて土手沿いに進むと福沢神社がある。
文命堤鎮護のために創建された神社(以前は文命宮と言っていた)である、福澤神社に立ち寄ってみる。境内の入口に文命堤に関する石造物が集まる。
福沢神社は、南足柄市怒田にある神社です。福沢神社は、酒匂川の洪水で決壊した文命堤を修復する際、田中丘隅が中国の治水の神とも言われる禹(称号は文命)を祀った文命宮を作って享保11年(1726)に創建、班目・千津島・壗下・竹松・和田河原の鎮守として祀られてきました。明治時代後期の神社整理令により明治43年近隣の諸社を合祀、村名「福沢」より福沢神社と改称しています(村名については天福寺参照)。境内の文命堤築堤時関係資料は南足柄市文化財に指定されています。
文命宮祠文命宮祠の左右に碑がある。右側が田中丘隅が建てた碑左側が、田中丘隅の案を政府が修正して建てた公の碑
田中丘隅がたてた六か所に川丈(かわたけ)地蔵尊の一つ11:42 文命堤公園でランチ後、班目(まだらめ)公民館にある閻魔堂
11:57天福寺
臨済宗円覚寺派寺院の天福寺は、玖富山と号します。天福寺は、記室譲公禅師(文明3年1471年寂)が応仁2年(1468)に開山したといいます。文禄3年(1594)には名主瀬戸文右衛門が観音堂を建立、「竹皮の観音さん」と称され、安産と子育て祈願を願う参詣者を集めていたそうです。明治9年には龍源寺の大嶋仁宗が天福寺に閑居、親交のあった福澤諭吉翁が当寺をしばしば訪れ、当地村民は諭吉翁から多大な影響を受けたことから、町村制施行に際して「福澤村」と名付けたといいます。七福寺お寺めぐりの福禄寿です。
本堂内の外陣がかなり広い構造になっており、その上の天井が面白い。
文禄3(1594)年には名主の瀬戸文右衛門によって観音堂が建立されました。ここには如意輪観世音菩薩が安置されており、毎年7月18日には毎年諷経が厳修されています。また、17年に一度中開帳、33年に一度本開帳が厳修されます。別名「竹皮の観音」とも呼ばれ、安産の観世音菩薩としても親しまれています。(「七福寺お寺めぐりin南足柄」掲示より)福沢諭吉が当時の10円を寄付したと書かれたものが朽ちたので新たに作成して掲げたもの。
本堂内陣にある本尊の如意輪観音が収めある。
参道
12:22 開成町にある瀬戸屋敷 入口のアジサイ
奥の蔵にある断層を切り取った標本。
12:49 アジサイ公園
こんなものもあった。
アナベル
13:05 小田急線
13:06 武田信玄考案の霞提(かすみてい)
右側の土手から撮った写真。左側の土手の後ろに酒匂川が流れている。流量が多くなると橋の方から左右の土手の間の耕作地に水を流して本流の流量を減らす工夫だ。
自宅から松田駅まで歩き、解散後も自宅まで歩いた、約19千歩のウォーキング。ランチまでは曇りで散策日和であったが、ランチ後は快晴になり暑く汗だくだ!
企画に感謝!
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