2023年2月10日金曜日8:33 雨時々雪
9日木曜日は秦野市観光ボランティアと歩くウォーキングに参加した。
今回のルートは小田急線鶴巻温泉駅から南西方向へ向かい平塚市・伊勢原市を巡りながらの歴史散歩、初めてのコースだ。
7:53 開成駅から鶴巻温泉まで電車。明神が岳の頂上は薄っすらと雪が。
かなり冷え込んだようだ。
今日のコースだ。
8:38 鶴巻の大欅
鶴巻の落幡(おちはた)にあるケヤキは「鶴巻の大ケヤキ」とよばれ、神奈川県の天然記念物に指定された昭和28年では、根回り12.5メートル、目通り幹囲10メートル、樹高30メートルの巨木です。天保13(1842)年に記された『新編相模国風土記稿』にもその記録が残っています。また、「大エノキ」とよばれ、豊作と生活を祈り大切に護られてきました。
周囲10m、ほんとにデカイ!!!8:46 落幡(おちはた)神社
温泉地として有名な鶴巻温泉のある鶴巻地区にある。なお「落幡(おちはた)」は鶴巻の旧名であり、1955年(昭和30年)までこの近辺の地名も落幡であった。現在無人であり、比々多神社の傘下にある。
- 1874年(明治7年) - 大住郡落幡村内の無格社を合祀して落幡神社とする。
- 1940年(昭和15年) - 皇紀2600年記念碑を建立。
- 1955年(昭和30年)4月15日 - 中郡大根村が秦野市へ編入。その際落幡地区が鶴巻と改名されたため地図上及び行政上から落幡の名が消える。
9:02 おおね公園。もともと湿地帯であったのを公園として整備された。大きい地震があると液状化して大変だと言う話だ。
9:06大根川を越えて平塚市へ。正確には大根川から北のおおね公園までの一部が平塚市真田。この辺は優れた田園地帯で昔の豪族達の捕りあいの場所ということか。下の写真の右側がその場所。
かわを越えた右側にある公園。
公園と向こうに見えるのがこれから行く天徳寺
9:12 天徳寺着
曹洞宗寺院の天徳寺は、萬種山と号します。天徳寺は、小田原北條氏の家臣鈴木隼人某(天正2年1574年卒、勝嶺長全)が義翁盛訓禅師(天正14年1586年寂)に帰依し、寺地を寄進して開山、その後真田城跡の当地へ移転したといいます。
義翁盛訓禅師は真田城主だった眞田與一義忠公(治承4年1180年石橋山の合戦で討死)を、真田明神と祀り、天徳寺國華長運と追謚して菩提を弔ったといいます。慶安元年(1648)には江戸幕府より寺領11石の御朱印状を受領していました。明治5年には小学郁文堂(後に真田学校)が当寺本堂を校舎として開校しています。
与一堂
天徳寺(平塚市真田)境内にあるのが平安時代末期の武将・真田与一(佐奈田義忠)を祀る与一堂(眞田与一廟所)。
真田与一とは、相模国大住郡岡崎(平塚市岡崎、伊勢原市岡崎)を領地としていた岡崎義実の子として久寿2(1155)年に生まれ、父・義実と共に源頼朝の挙兵に参加した武将。
治承4(1180)年の石橋山の戦いで、闇夜の乱戦中に討ち死にしたとされる(享年25)。そんな暗い中で戦死した与一の為に明るくしてあげようと、天徳寺の神輿は多くの提灯が取り付けられており、陶山さん曰く「平塚市内で一番重い神輿と言われています」。この神輿も当日は「眞田尊神輿保存会」により渡御が行われる。
イベントの内容としては与一堂のご開帳のほか、頼朝の石橋山出陣を再現する武将20人・脇役3人による武者行列や地域の子どもたちによる稚児行列。また、湯河原の「焼亡の舞保存会」による舞なども行われるなど、地域の住民らの手づくりによる新規イベントではあるが、本格的な充実した内容のお祭りに仕上げられている。
同協議会の陶山豊彦代表は「昔はお祭りなどがあればこの地域にも人が沢山来たんですよ。今は少なくなっちゃって寂しい。ですから今回のイベントはこの地域の再興を願って企画しています。是非多くの人にお越し頂ければありがたいです」と話している。
この神輿には、真田与一だけではなく、その家臣の陶山文三、腰巻文六の名がはいった提灯も掲げられています。
天徳寺は寺子屋であったが明治になり真田学校となった。
近隣にある陶山家の現在の当主の家にある家宝
刀、書物、版木
版木
陶山家
9:36 真田神社
真田神社は、平塚市真田にある神社です。真田神社の創建年代等は不詳ながら、真田与一義忠の郎党・陶山文三の子孫が京都八坂神社(牛頭天王)を勧請したといいます。真田村の鎮守として祀られ、徳川家康が関東入国した翌年の天正19年(1591)には社領1石5斗の御朱印状を受領、明治維新後の社格制定に際し明治3年村社に列格、明治9年真田神社と改称しています。
自慢の石造りの鳥居
9:45 真田神社から東に向かうと田園地帯が続く。そこからみた大山。
富士山も
9:54 大根川の右側(北川)は低地ですぐ水が溜まるのでポンプで水を汲み上げ大根川に流している。そのポンプ場がある所。
大根川と善波川との合流地点。奥の山は大山。
10:17 風が吹き抜ける土手を歩いて漸く次の目的地大光院に到着。
真言宗東寺派、詳細不詳。
この大光院は周辺より高い所に立っている。この斜面は伊勢原断層で過去に何回も地震が発生しているとか。この断層は鶴巻温泉方面へと続いている。
伊勢原断層(いせはらだんそう)は、神奈川県中部の相模原市から平塚市にかけて存在する活断層で、南北に長さ約21km延びる[1]東側隆起の逆断層である[2]。東側には断層山地として中津山地が形成され、更に山地の東側には鶴川起震断層が併走する。
丹沢山地の北東外縁に位置し断層北部は宮ヶ瀬ダム付近にあり、ほぼ神奈川県道64号伊勢原津久井線から神奈川県道63号相模原大磯線に沿って南下し南延長は金目川の低地(平塚市北部)に達する。南限の延長方向には、いくつかの断層が断続的に分布し伊勢原断層との関連が注目される[3]。
10:27 浄土宗円徳寺雨乞い地蔵。戦前雨乞いのためこの地蔵を川まで運びそこで雨がふるまで祈祷した。雨が降ると地蔵を戻しお礼の祈祷をしたとのこと。
10:32 隣の真言宗金剛頂寺
東寺真言宗如意山金剛頂寺(京都寳菩提院末) 本尊は大日如来、相模薬師第十九番札所 ● 弘安年間(鎌倉時代)東寺の僧 融仙が、関東来錫の砌、現在地(岡崎)に開創 ● 1496年(明応5年3月13日卒)開山賢秀 ● 室町時代後期、当地の真言宗の法相談所として隆盛をとげる 後に、矢崎村(当山東方約400m)に大森氏が住居していた頃、大森賢秀が造立 ● 1558~1569年(永禄年間) 北条氏が岡崎城攻撃の際炎上し再建された ● 1591年(天正19年)寺領として五石を賜ふ 小田原北条氏印判状、御朱印箱等を今日に伝えている ● 1750年(寛延3年)鐘楼の鐘を掛 ● 1780年(安永9年)火災にあい住職廣愿の代、再建の上棟を行なった記録が 現在の建物に残されている。 | |
10:53 岡崎公民館にある岡崎四郎義実像
岡崎 義実(おかざき よしざね)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。三浦氏の庶家・岡崎氏の祖。三浦義明の弟。三浦義継の末子で三浦悪四郎と呼ばれた。神奈川県平塚市岡崎・伊勢原市岡崎にあたる相模国大住郡岡崎を領し、岡崎氏を称した。
四郎が着ている水干は上総広常と争って獲得したもの。 | |
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人物概要
三浦氏は古くからの源氏の家人で、義実は忠義心厚く平治の乱で源義朝が敗死した後に鎌倉の義朝の館跡の亀谷の地に菩提を弔う祠を建立している。義朝の遺児源頼朝の挙兵に参じ石橋山の戦いで嫡男の義忠を失ったが、挙兵直後の頼朝をよく助け御家人に列した。晩年は窮迫したが89歳の長寿を全うした。土肥実平の姉妹を妻にしており、本家の三浦氏とともに土肥氏とも関係が深い。
10月20日の富士川の戦いに参加し合戦は戦わずして平家が敗走して終わった。合戦後の夜に、一人の青年が黄瀬川の陣に現れ頼朝との面会を求めたが、その場にいた義実は怪しんで取り次ごうとしなかった。騒ぎを聞きつけた頼朝が面会すると、その青年は弟の九郎義経であった。兄弟の対面に義実をはじめとする諸将は涙した。有名な黄瀬川の対面である。
治承5年(1181年)6月、三浦義澄の館へ頼朝が渡り酒宴が催された。その席で、義実は頼朝着用の水干を所望した。頼朝は快く許し、義実は喜んでその場で着用した。すると上総広常がこれを妬み「このような美服は、この広常こそが拝領すべきものだろうに、義実のような老い耄れが賞せられるなどとんでもないことだ」と言い放った。この暴言に義実は激怒し、つかみ合いの喧嘩になりかかった。頼朝は言葉もなく黙ってしまうが、三浦一族の佐原義連が義実に「このような場で喧嘩とは老狂のいたすところか」と叱りつけ、広常には「あなたの言うことは道理に合わない、所存あれば後日に承ろう」と仲裁に入りことを収めた。
頼朝政権の中で飛びぬけて多くの兵力を有する広常には驕慢な振る舞いが多く、京を制して武家政権を樹立するよりも関東割拠を主張するなど危険な存在であったため、この3年後の寿永2年(1184年)に頼朝の命令で梶原景時に暗殺されている。
義実の元には、石橋山の戦いで嫡男の佐奈田義忠を討ち取った長尾定景が預けられていた。慈悲深い義実は息子の仇を討って首を刎ねることなく囚人として捕らえるに留めおり、定景は日々法華経を読経していた。ある日、義実は頼朝に「読誦を聞くうちに怨念は晴れました。もしも彼を斬れば、冥土の義忠が難を蒙りましょうから」と言って定景の赦免を願い出て、治承5年(1181年)7月に頼朝はこれを許した。
頼朝の挙兵にいちはやく参じて忠節を尽した義実は御家人に列して、諸行事に参列している。既に70歳を超える老齢なためか、その後の平家追討の戦いには名が見えず従軍はしていないと思われる。
文治4年(1188年)8月、義実は相模国波多野本庄北方(神奈川県秦野市)の所領を巡って波多野義景と訴訟になり、義実は敗訴し、罰として鶴岡八幡宮と勝長寿院での100日間の宿直を命じられた。結局、この罪は翌9月に義実の郎党が箱根山で山賊の字王藤次を捕らえたことで許されている。
文治5年(1189年)の奥州藤原氏討伐(奥州合戦)に先次郎惟平とともに従軍。
晩年
建久4年(1193年)8月24日に義実は大庭景義とともに老衰であるためとして出家入道した。
建久10年(1199年)正月に頼朝が死去し、同年10月に三浦義村と和田義盛が主導した梶原景時の変の景時弾劾連判状に義実入道は名を連ねている。
正治2年(1200年)3月14日、その日は余寒冬よりも甚だしかったが、義実入道は杖をついて尼御台所(北条政子)の御所を訪ねて来た。義実は80歳を超えて老衰し、病に苦しみ、余命いくばくもないのにもかかわらず貧乏して頼むところもない。所領は亡き義忠のために仏寺へ寄進したいと志しているものの、残る所領も僅かで子孫のことが案じられると泣いて窮状を訴えた。政子はこれを憐れみ、石橋山の合戦の大功は老後であっても賞せられるべきであると将軍・源頼家に一所を与えるよう使いした。
その3ヶ月後の6月21日に義実は89歳で死去した。
横浜市栄区上郷町にある證菩提寺は、頼朝が義実の子、佐奈田義忠(名字を佐那田と書く文献もある[1][2])を弔うために建設し、1197年(建久8年)に完成したといわれる古刹であるが、「證菩提」は義実の法名だという[1]。
画像集
公民館にある岡崎上付近の古地図
11:06 公民館のそばにある岡崎神社でランチ
昔、山王社と称し、岡崎郷7村の総鎮守であったという。
なぜか山王社が本殿の他にもう一つある。
もう一つの山王社殿
11:49 ランチ休憩後大森氏館跡の曹洞宗紫雲寺に。
宝篋印塔(ほうきょういんとう)か
屋根が変わっている
11:59 木がある辺りが前期北条氏時代の城跡
もっこりとした辺りが後北条氏時代の城跡。この辺りは湿地帯であったため後期岡崎城主三浦義同(道寸)が北条早雲と17年間も戦った。結果は敗れ三浦へ敗退した。
12:15 岡崎四郎の墓
皇太子も来ている!
12:31 岡崎城址の無量寺
勇将岡崎四郎義実によって築城され、軍事・統治両面を兼ねた名城でした。
岡崎氏は、鎌倉幕府に重きをなした三浦四棟領の一つに数えられた名門で、桓武平氏の出と言われています。
三浦一族の持城として要害を誇ったこの城も、北条早雲の猛攻により落城し、その本丸跡に建てられたのが無量寺です。
また、付近には乙女の悲しい田植え伝説のある大句の五反田と、乙女地蔵もあります。
12:45 近くの大地にある野陣台。高台の休息所だが見晴らしよいことから大事な駐屯地であった。
12:32 曹洞宗浄泉院
12:52 腰取神社
[大句の鎮守様 腰取神社]
江戸時代の天保年間(1830~1843)に創建。その後明治6年(1873)無格社に定められ、明治43年(1910)には岡崎神社に合祀されたが、町村合併時の分村合併に伴い中郡岡崎村から伊勢原町岡崎と地名が変わり昭和32年(1957)9月に分祀、旧に復し大句住民の氏神様として現在に至る。
社殿は平成12年に立て替られ流れ造6坪。
社名の由来は鎮座地が台地(腰)に位置を占め(取る)ていたので腰取神社と呼ぶようになったとの説がある。
腰取神社参道
13:08 五反田の乙女地蔵
13:10 曹洞宗芳圓寺
13:14 大句バス停から伊勢原駅へ向い解散。
鎌倉時代の北条、戦国時代の北条がこの場所でいろいろと動きがありなかなか理解ができなかったが、今日は一日天気が良く気持ちの良いウォーキングであった。
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