2023年2月2日木曜日

2月2日小田原七福神三面大黒天と小田原城総構

 2023年2月2日木曜日15:10 曇り

今日は確定申告書提出のために小田原税務署に行ったので、ついでに市内を散策。

1月25日に秦野歩こう会の企画「小田原七福神巡り」でカットされた蓮船寺とその周辺の

小田原城総構を目的に歩いた。

10:27 七福神の一つ寿老人の鳳巣院へまず到着。ここから城山公園に向かって坂を

上っていくのだが坂が急で休みながら行くと時間を要するので、やむを得ずカットされた。

このお寺の入り口の坂も急だ。






10:30鳳巣院の反対側にあった浄土宗本聖寺による。

浄土宗寺院の本誓寺は、當知山重願院と号します。本誓寺は、鎌倉の人藤枝某(法名安楽寺)が開基、飯沼弘経寺第三世傳蓮社曜輿西冏信公(永正4年)が開山となり永正4年(1504)に創建したといいます。六世大誉文賀は、江戸に転じて深川本誓寺を創建、深川本誓寺関東十八檀林の一として浄土宗僧侶の養成にあたっていたといいます。足柄三十三観音霊場24番霊場です。





ゴジラが!!!



13:36 坂を上がっていくと曹洞宗桃源寺があった。

曹洞宗寺院の桃源寺は、龍鳳山雲晴院と号します。桃源寺は、大久保加賀守忠常の嫡女、美濃加茂城主里見安房守忠義(法名雲晴院心宗賢涼居士)の菩提を弔うため、加納久雲寺住僧を招いて忠義の後室(法名桃源院仙悲妙壽大姉)が追福、寛永年間に忠職が能山耳藝を開山に迎えて龍鳳山雲晴院桃源寺と号して創建、藩の移封に伴い当地に移転したといいます。



10:38 今度は日蓮宗浄永寺が。

縁起

鎌倉幕府の執権・北条時宗の家臣で、風祭に住んでいた風祭大野之亮入道光秀という人が、建長年間(1249-1256)に日蓮に帰依し、弘安3年(1280)の冬に身延山に参詣して曼荼羅と蛇身解脱の画像を授けられて、(風祭または水の尾(7))宅地の側に法華堂と七面社を建立した(1)

同5年(1282)9月に日蓮が光秀の邸宅に来たとき、現在の山寺号(「光秀山浄永寺」)を授けられ、また光秀の子を弟子僧にして妙音阿闍梨日行と名付けて始祖(開山)とし(日行は元徳2年・1330没)、光秀を開基としたと云われていた(1)

中興

永正15年(1518)、住職が妙光院日形のとき、現在の場所(城山)に移転した。日形は北条左京大夫氏綱の伯父だったことから、氏綱が堂宇を再興し、この時に「妙光院」の院号を名付けて通称とした。このため日形が中興とされている(日形は永禄元年・1558没)。(1)

享禄3年庚寅(1530)に氏綱から寺域の制札を下賜された(1)

禁制、右当寺内山屋敷、竹木剪取事、堅令停止畢、自然剪者有之者/相伴可遂披露者也、仍如件、庚寅(享禄3年・1530)六月十日、妙光院、遠山新次郎奉之[虎朱印

江戸時代

元和年間(1615-1624)に寺宝の蛇身解脱画像が紀州家の初代・紀伊大納言(徳川)頼宣の母(正木左近大夫康長の長女)・養珠院の信仰を受けたことから、寺は同家の祈願所、宗門の相模触頭となった(1)(7)

天和2年(1682)に領主・稲葉美濃守正則から、先例のとおり、境内の7石の土地を寄附された(1)

本尊の三宝・祖師像は、弘安3年(1280)の光秀の作で、祖師(日蓮)の開眼といわれていた(1)

鬼子母神

鬼子母神像は、像高6寸5分(約20cm)、日行の作(1)

三十番神

鬼子母神像と三十番神像は、もと境内の別の堂宇に安置されていたが、火災にあって本堂に安置されるようになった(1)

曼荼羅

曼荼羅1幅。日蓮の筆で、「弘安三年(1280)十月日」と記してあった(1)。日蓮が開基・光秀入道に授与したとされていた(1)

蛇身解脱画像

蛇身解脱画像1幅。同筆とされ、身延山で日蓮が蛇身解脱した様子を描いた像(1)。女人成仏を意味する図柄で、『風土記稿』には寺伝で日蓮が開基・光秀入道に授与したとされていることがみえ(1)、『全国寺院名鑑』には鎌倉末期(-1333)伝大蔵卿筆とされているが(7)、制作年代は安土桃山時代(1568-1598)頃(2)ないし桃山時代(1582-)(3)と推定されている。

画像は日蓮上人説法図の異色なものとして古くから知られており、身延町大野の本遠寺などに模写したものがある(2)

この画像を信仰していた紀伊徳川家初代・徳川頼宣の母・養珠院は、天下長久の祈願として、東照宮の服の切地(生地?)を用いて表装し、二重の箱を寄附したと云われていた(1)

1958年(昭和33)に「絹本着色 日蓮聖人像」として神奈川県の文化財指定を受けており(2)(3)、2021年現在、鎌倉国宝館に所蔵されている(3)

浄永寺文書

年不詳で、北条氏康が浄永寺の日源上人にあてて、出陣に際して合戦の勝利を祈願し、のちそれを謝した書状。1978年(昭和53)に小田原市の指定文化財に指定されている。2013年5月31日現在、鎌倉国宝館に所蔵されている。(4)

境内

1970年当時、境内は350坪(約34m四方)、建物は本堂、庫裡、宝庫、七面堂および稲荷堂(7)

七面社

浄永寺 七面堂(その一帯が土砂災害特別警戒区域の急傾斜地)境内の七面社には、毘沙門天妙見大菩薩(1尺2寸・約36cm、運慶作)が合祠されていた(1)






10:42 更に行くと道路わきに。
10:47 更に進むと慈眼寺の立派な門が。
真ん中に何か板があると思い写真を撮ったら。

10:51 急坂を上ると陸上競技場の入り口に御前曲輪の碑があった。


10:54 更に上り、標識に従い小峯の大穂堀切へ向かう。

10:57 毒榎平(どくえだいら)

この地名は、小田原城絵図の一つである「加藤図」(1614~32年)に「とくえ山」の名で初めて見られます。 また、「延宝図」(1675年)には、現M・R・Aハウスアジアセンター付近の外、ここに大きく「小峯山」と記しています。 明治年代などの地籍図では、「字毒榎」または「毒榎平」の名で見られます。この地は、天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原攻め(豊臣秀吉が九州征伐後に全国統一の総仕上げとして、関東最大の勢力であった小田原北条氏を滅ぼした戦い)に備えて設けられた大外郭ができる前までは、小田原城の最西端にあたる場所でした。西側には巨大な空掘と土塁が今も残っており、小田原北条氏時代(北条早雲、氏綱、氏康、氏政、氏直の北条氏5代(1495~1590年))の小田原城にとって、この地が重要であったことがわかります。 なお、昭和年代には小峯森林公園や小峯浄水場となったところです。「毒榎」は、アブラギリの別名で、菜種油が普及する以前に防水用の油の原料として、広く植えられました。毒榎平と「毒榎」の名との関連は、はっきりしていません。


途中、キノコを見つけた!

11:00 小峯御鐘の台大堀切を見学
東堀



 東堀に向かわず西堀へ
蓮船寺は東堀から回ることにして西堀へ
西堀の入り口にあった。


これが掘りだ



左が堀
西堀に下りて撮影
下の写真の全体図 。現在地から見た写真が次の写真
上の図の堀と堀の間がこの写真
現在地とあったところを撮影
右から大山、ヤビツ峠、二の塔、三の塔
東堀に進む


来た方向
先に進む

蓮船寺に向かう

11:26 蓮船寺着

日蓮宗寺院の蓮船寺は、惺雄山と号します。蓮船寺は、北條氏の家臣井出内匠正國(法名先光院随全日清、天正8年1580年卒)が開基となり、永正2年(1505年)に創建したといいます。小田原七福神めぐり大黒天です。

沿革
永正二年(1505)二月開山蓮行院日船聖人・開基小田原北条氏一門、北条美濃守氏規の家臣井出内匠正(いでたくみのしょう)により小田原市内板橋見附にて開創。
寛永五年二月客殿五間半七間半完成。元禄十六年地震により全壊。享保年間、河内狭山藩家老井出半左衛門信當により中興。その後も早川の氾濫のたびに流出すること数度。大正十二年関東大震災により全壊。昭和十年再建するも、昭和35年新幹線開通工事により板橋より現在地に移転。








大黒天
奥に茶室があった。これは茶室に入る前の待つ所と思われる。



高台からみた相模湾

ターンバイク箱根が見える


今回は行かず
11:35 新堀土塁へ


新堀土塁
真鶴方面
湯元行きロマンスカーが!

小田原短期大学の横を通り降りていく途中に見えたお城
東海道本線
東海道線
箱根登山鉄道

11:51 八幡山古郭東曲輪へ





東曲輪の前にお城が
跡地は何もない!
小田原駅に向かいランチへ。その後帰宅。
 
 


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