2022年5月27日金曜日

5月26日秦野観光ボランティアと歩く 中村宗平一族とみかんの花咲く里大山羽根尾道を歩く

 2022年5月27日金曜日9:10 雨

昨日は秦野観光ボランティア協会主催のウォーキングに参加した。

コースは、中村宗平一族とみかんの花咲く里 大山羽尾根道を歩く。


8:31 秦野駅をバスで出発。高校生と一緒で降りるバス停も同じ。混雑!!


8:44 秦野総合高校前に到着。天気もよく、いざスタートだ。


8:59 丘陵地区にある金井場から江ノ島が見えた!



秦野市内。残念ながら丹沢の山々は雲の中!

9:06 この木の下に秦野で一番古いお地蔵さんがあるとのこと。

震生湖に向かってのんびりとウォーク

市内の向こうに見えるのは大山へ向かう尾根道

9:15 この道を降りていくと震生湖。

関東大震災でこの断層が生じ、崩れた土砂で川を堰き止めて湖が生まれた。

1923年(大正12年)9月1日の関東大震災でこの付近は幅約200mにわたって陥没し市木沢(いちぎさわ)がせき止められ、震生湖は誕生しました。 
東側の絶壁は当時の崩壊した跡といわれています。 




寺田寅彦の句碑
湖畔にある句碑は、東京帝国大学 地震研究所の寺田寅彦(てらだとらひこ)が、1930年(昭和5年)9月に震生湖に2度調査に訪れ、その際、詠んだ俳句3句のうちの1句です。
「山さけて 成しける池や 水すまし」
「大地震で山が割れ、川がせき止められて出来た湖に、今やその時の騒がしさが嘘のように水すましが、ひっそりと水面に浮かんでいる。」 この句碑は、1955年(昭和30年)9月1日に建立されました。







9:38 小休止後中井中央公園に向かって進む。ここからは秦野市ではなく中井町になる


センダン


10:09 東名高速を越える。この先が中井パーキングだ。


10:22 ふれあい境休憩所で食べた実。すっぱかったが美味しかった。
名前は忘れた。


休息所

中井町の散策コース

10:29 萬緑の丘


先ほどと同じセンダン


センダンの花

明神ヶ岳と金時山が見える

クサフジ

クサフジ


11:10 ランチは中井中央公園。食後早速長い滑り台に一人で向かう。
しかし、この円が狭く頭を打ちそうで断念!楽しみにしていたのに惜しかった。



公園内

11:37 公園を出発。途中にあった比奈窪横穴群。今は埋め戻しされ良く分からないがこの山全体だそうだ。

11:47 中井町役場の南側に広がる田園風景

12:00 五所八幡宮に到着


  • 主祭神誉田別命(ほむだわけのみこと、応神天皇
  • 保元2年(1157年比叡山延暦寺の僧慈恵の門人である義圓が東国行脚の時、当町雑色村(ぞうしき)子の神の祠に一夜の宿を借り霊夢によって白鳩に導かれ、現在の地「龍頭丘(りゅうずがおか)の杜」に至り、ここに現われた童子(誉田別命)の霊言に従って勧請したと伝えられる。 五所宮の由来は八幡宮の勧請5番目とされるからであるという[1]
  • 4月29日の例大祭(神幸祭)が行われる。この例大祭で演じられる「鷺の舞」は日本全国に3例しかないとされ[2]昭和52年(1977年)に「かながわの民俗芸能50選」及び中井町の文化財指定を受けた(指定第1号)。


結構急な階段











配祀神として菅原道真公も。


本殿の後ろにあった後三社

この中に後三社がある


戦時中に供出を免れた梵鐘


12::33 中村氏居館跡

12:40 滝の前五輪塔

中村庄司平宗平と記載されている

中村氏は、桓武平氏良文流である平忠頼の子平頼尊に始まるという。

そして、常宗の子である宗平の代になって初めて中村の名字を名乗ったとされる。

平宗平相模国余綾郡中村荘(現・神奈川県小田原市中村原、中井町中村付近)にちなんで中村荘司と称した。中村氏の実質的な始まりだが、一族も発展することとなる。

嫡子の重平は父から中村の名字を継承した。次男の実平土肥氏を称し、その息子の遠平小早川氏を称した。三男の宗遠土屋氏を、四男の友平二宮氏を、五男の頼平堺氏をそれぞれ称した。

かくして中村党が形成されたのだが、本宗である中村氏は振るわなかったようで、後に土肥・土屋一族がその中核を占めるようになる。

また、宗平の娘である桂御前は、同じく相模国の豪族である三浦党岡崎義実に嫁ぎ、義忠義清兄弟をもうけている。この内、義忠は佐奈田氏を称しているが、弟の義清は母方の叔父である土屋宗遠の養子となり、土屋氏を称している。

もう一人の宗平の娘である満江御前伊豆国伊東祐親に嫁いでいるが、諸系図を見ると中村党と伊東久須見)一族と密接に婚姻関係を結んでいたのが分かる。

宗平の娘と祐親の間には、河津祐泰伊東祐清八重姫万劫御前らが生まれたが、この内、万劫御前は最初は工藤祐経の妻であったが、後に土肥遠平と再婚している(遠平の娘は、祐経の子・伊東祐時に嫁いでいる)。河津祐泰は曾我兄弟の父として有名だが、祐泰の妻・満江御前は最初は源仲成に嫁ぎ、最初の夫との間に出来た娘は二宮友平の息子・友忠に嫁いでいる。


また近くにも五輪塔が民家の中にある


12:54 遠藤地蔵堂  集めたのではないか? 




12:58


13:02 弘法大師堂
弘法大師が杖を立てたら清水が出たという井戸



大師堂からが大山道羽根尾通り。きつい坂がある。


上ると景色が広がる。丹沢方面

13:24 一本松跡。峠の茶屋もあったそうだ

右側が飯泉に向かう

来た道で小田原方面へ






一本松から井ノ口へ向かいバスで秦野駅へ。解散、約2万キロののんびりとした散策であった。













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