2022年5月27日金曜日9:10 雨
昨日は秦野観光ボランティア協会主催のウォーキングに参加した。
コースは、中村宗平一族とみかんの花咲く里 大山羽尾根道を歩く。
8:44 秦野総合高校前に到着。天気もよく、いざスタートだ。
湖畔にある句碑は、東京帝国大学 地震研究所の寺田寅彦(てらだとらひこ)が、1930年(昭和5年)9月に震生湖に2度調査に訪れ、その際、詠んだ俳句3句のうちの1句です。
「山さけて 成しける池や 水すまし」
「大地震で山が割れ、川がせき止められて出来た湖に、今やその時の騒がしさが嘘のように水すましが、ひっそりと水面に浮かんでいる。」 この句碑は、1955年(昭和30年)9月1日に建立されました。
中村氏は、桓武平氏良文流である平忠頼の子平頼尊に始まるという。
そして、常宗の子である宗平の代になって初めて中村の名字を名乗ったとされる。
平宗平は相模国余綾郡中村荘(現・神奈川県小田原市中村原、中井町中村付近)にちなんで中村荘司と称した。中村氏の実質的な始まりだが、一族も発展することとなる。
嫡子の重平は父から中村の名字を継承した。次男の実平は土肥氏を称し、その息子の遠平は小早川氏を称した。三男の宗遠は土屋氏を、四男の友平は二宮氏を、五男の頼平は堺氏をそれぞれ称した。
かくして中村党が形成されたのだが、本宗である中村氏は振るわなかったようで、後に土肥・土屋一族がその中核を占めるようになる。
また、宗平の娘である桂御前は、同じく相模国の豪族である三浦党の岡崎義実に嫁ぎ、義忠・義清兄弟をもうけている。この内、義忠は佐奈田氏を称しているが、弟の義清は母方の叔父である土屋宗遠の養子となり、土屋氏を称している。
もう一人の宗平の娘である満江御前は伊豆国の伊東祐親に嫁いでいるが、諸系図を見ると中村党と伊東(久須見)一族と密接に婚姻関係を結んでいたのが分かる。
宗平の娘と祐親の間には、河津祐泰、伊東祐清、八重姫、万劫御前らが生まれたが、この内、万劫御前は最初は工藤祐経の妻であったが、後に土肥遠平と再婚している(遠平の娘は、祐経の子・伊東祐時に嫁いでいる)。河津祐泰は曾我兄弟の父として有名だが、祐泰の妻・満江御前は最初は源仲成に嫁ぎ、最初の夫との間に出来た娘は二宮友平の息子・友忠に嫁いでいる。
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