2025年9月26日金曜日

9月25日南足柄市観光ボランンティアの会主催ウォーク 足柄平野横断ウォーク1 国府津~小田原

 2025年9月26日金曜日10:00 晴れ

昨日は、南足柄市観光ボランティアと歩く企画に参加。足柄平野横断ウォーク1 国府津~小田原。当初計画は国府津駅から小田原に向かって歩く約7キロであったが、実際に幹事が歩いてみたら14時過ぎに小田原駅に着くので、天気(快晴)も考慮し途中までバスで移動することに。結果大正解で予定通り小田原駅に12時ついた。   

 JR国府津駅h初めて降りたので駅前を散策。




9:38 9:20頃の小田原駅行バスに乗り酒匂中前で下車。日蓮宗の法船寺へ。  

 佐渡流罪を赦免されました日蓮大聖人は時の執権、北条時頼に三度目の『立正安国論』を諫暁致しました。
然しながら三度目の諫暁も聞き入れられる事が無かったので『三度諫めても用いずば山林に交じるべし』の故事に従い、
ご赦免後一ヶ月半の文永十一年五月十二日、鎌倉をはなれ身延山に向かい旅立たれ、この酒匂まで来られました。
夕刻小田原宿の手前酒匂川の岸までたどり着きましたが、前夜来の大雨で酒匂川は増水の為、渡る事が出来ず、日も暮れ宿も無く困難なされております時に、
地蔵堂の堂主飯山入道夫妻庵室の庭にありました一本の老松が龍の如く光り輝き、
不思議に思い宗祖ご一行は庵室の庭先へと導かれました。
上品な老翁が御手引きして、『ここに皆様ご一泊してください』と案内されるままに地蔵堂にお入りになりますと、
お地蔵様に念仏ばかり唱えているご夫婦のみで老翁はおりません。
飯山入道夫妻この話を聞いて、
『お地蔵様がその姿を一人の老翁に姿を変じて、御手引き申し上げたのでございましょう』と
恭しく大聖人ご一行を心からご接待申し上げました。
然も大聖人の化導を受けて念仏信仰を法華経信仰へと改心したのであります。
翌十三日竹ノ下に向かう大聖人ご一行を、船を出して酒匂川を渡された法労に対して
飯山入道夫妻に『済度法船居士』『蓮慶妙船大姉』の法號を授与せられました。
後に日蓮大聖人のご尊像を彫り刻む名手といわれております中老僧日法聖人の手によって、
龍燈の奇瑞を現ぜし松の木の一部を持って祖師ご尊像を刻み、
師僧六老僧大國阿闍梨日朗聖人に乞いて開眼入魂し當山に奉安してあります。

 


1994年立教開宗750年の記念事業として小ぶりな五重塔を完工。総高6.8m総檜本瓦葺きの本格的建築。総工費7500万円、小田原市で唯一の五重塔。心柱一本で耐震性を誇る古来の方法で作られている。因みに東京スカイツリーもこの基本概念で作られているとか。日本建築の素晴らしさか!


境内にある廟


10:31新田義貞の首塚  家臣の宇都宮泰藤(小田原城主大久保氏の先祖とされる)が京都でさらされていた首を奪い、本国(群馬県)へ届けようとうるが小田原で重病に罹り、首を瓶に収め酒匂川の辺りに埋めたと伝えられている。尚、その伝書はほかにもあるとか。


11:07北条稲荷神社      

 北条三代氏康公が、夏の夕涼みをしていると、狐の鳴き声を聞いた。そこで、氏康公は、「夏はきつ ねになく蝉のから衣 おのれおのれが身の上にきよ」と即興の歌を詠んだ。(夏はきつねが鳴く時期ではなく、蝉の鳴く季節であるという意味で、季節外れの狐を茶化した歌という)
その翌日、昨晩狐が鳴いていた場所で、一匹の老狐が死んでいた。
その後まもなく、氏康公の家臣に狐の霊が憑き、「氏康公の歌によって命を落とした。この恨みは深い。この後必ず身辺に災いが起こるだろう」と叫んだ。そして、その翌年に氏康公が亡くなったため、これは老狐の祟りと恐れ、四代氏政公が、狐の霊を鎮めるため、場内に北條稲荷の社を建て供養したというのが、この北條稲荷の起源だと言い伝えられています。

 いわゆるお稲荷さんとは全くの別物。



 隣に蛙(かわず)石がある。
今から四百年以前北條稲荷が当地に建立せられて以来蛙石は稲荷末社の一として蛙石明神と崇められ永い由緒をもった小田原の名蹟である。その蛙石と言う名称は形状の蛙に似たところよりいつしか唱えられるに至ったものであろう。もと小田原城内の庭上にあったものを北條稲荷勧請の際ともに城中よりここにうつされたと伝えられているが明治三十五年の大津波にも大正十三年の大地震にも少しの移動もなかったので然らば地下岩盤の露出の先端ではないかという。
都路往来の文中に「蛙鳴くなる小田原の里」とあるのはこの蛙石が小田原に異変があるときには必ず鳴声を発するためだと伝えられ特に北條時代小田原落城の際は夜なく盛んに鳴いたというのは名高い伝説である。
 



11:20 蓮上院の土塁(総構え)

豊臣秀吉による小田原攻めに対して北条氏が築いた総構の一部です。小田原城総構の中でも低地部にある遺跡として、貴重なものです。土塁の外側には渋取川を配し、堀としていました。



11:45 北条氏輝と氏康の墓 小田原駅の南側で繁華街のすぐそば。いつも近くを通ていたが初めて知った。驚ぎだ!





天気は快晴、楽しいウォーキングではあったがちょっと暑かった。

参加者誰も熱射病にならなくてよかった。幹事さんご苦労様でした。
 

2025年9月19日金曜日

9月19日秦野観光ボランティアと歩く  東田原中丸遺跡くずは峡谷 本町地区の歴史建物探訪

 2025年9月19日金曜日16:16 曇り

昨日までの猛暑から一転涼しい一日の予報。ラッキーな天気予報。

今日は久しぶりの秦野観光協会主催の観光ボランティアと歩く企画に参加。 

朝9時秦野駅に集合だ。



9:29  秦野駅9:05発のバスに乗り、中庭バス停で下車。 

9:34 まずは源実朝の首塚がある田原ふるさと公園へ

 
隣にある東田原中丸遺跡 

公園ではかかし祭りが。

10:10 轟坂   この道の左下に川が流れており、その昔は川音が轟いていたため、この坂を轟坂とよんだ。

10:20 小田急不動産が開発したくずは団分譲地を抜けて、分譲地に隣接したくずは峡谷に到着。
秦野盆地のほぼ中央を流れる葛葉川と豊かな緑に囲まれる峡谷です。
周辺の葛葉緑地は1987年(昭和62年)に「かながわのナショナルトラスト第1号」に認定されました。

秦野盆地にある葛葉川では、峡谷をつくる河岸の崖に粘土質の茶色い地層とそれに挟まる黄褐色や白色の地層がいくつも積み重なっている様子を観察できる。この地層は、約13万年〜12万年前以降に堆積した関東ローム層であり、火山灰や軽石、スコリアなどの火山噴出物に由来する細かい粒子をもととしている。黄褐色や白色に見える地層は、主に西側の箱根火山の爆発的噴火によって空から降ってきた火山灰や火山礫が堆積したものである。




平成7年6月には秦野市制40周年に合わせて峡谷に「くずはのつり橋」が架けられました。
10:59 くずは峡谷の隣にある金比良宮

11:08 乳牛と書いて「ちゅうし」とは普通は読めない。この奥に水神さんがある。
水神石祠
11:15 イ号源泉  ロ号源泉の道を挟んで反対側にある

11:18 城光院  神仏融合の宗教で元は渋沢の大蔵にあったとか。
狛犬ではなくこんなものが両サイドにあった。
    

 城光院のそばにある秦野水道発祥の地。日本で横浜、函館に次いで3番目だそうだ。

秦野の水道は明治23年3月に給水を開始し、横浜、函館とほぼ同時期に、全国的にも極めて早い時期に建設され、簡易陶管水道・自営水道としては日本初(諸説あります。)の曽屋水道を発祥としています。

当時としては非常に珍しく、水道について住民が主体となって、計画を立て、お金を出し合って作り上げたため、当時の方たちの汗と涙の結晶と言えます。





11:30 曽根神社 

おおよそ1,190年あまり前、天長年間の御鎮座とされております。
貴重な湧水地であったため、「水を司る神様」をおまつりしたことが創始であります。


この湧水は、秦野の上水道の歴史上、特筆すべきものです。
往時は、この地域では井戸を掘っても水を求めづらく、唯一湧き出ていた「井之大明神・井之明神社」(曾屋神社の旧称)と、乳牛水神社の湧水の二か所の水源を利用して生活を営んでいました。現在でも古い水路が残されています。年配の方の証言では、ウナギや小魚なども泳ぎ回っていたそうです。

タンスイベニマダラ  赤い藻が見える



11:49 曹洞宗大用寺  

天正十年(1582年)真翁宗達大和尚が開山した、と記録に残っています。
全国でも少ない珍しい鐘楼門をくぐると、目の前には大きな百日紅の木と本堂があります。
この百日紅はお盆の時期には鮮やかなピンクの花を咲かせ、秦野市内の観光スポットにもなっています。



さるすべり


茶筅の筅塚

13:07  ランチ後市内の歴史建物を見て回る。出桁建築の店舗。

出し桁とは、建物の柱や壁などの構造部材を支える重要な要素のひとつで、地面からの高さを出すために設置される横桁のこと。建物の安定性や耐荷重性を向上させる役割があるんだ。


14時頃秦野駅で解散。

久しぶりのウォーキング。曇ってはいたが久しぶりに紫外線を十二分に浴びたせいでちょっと疲れたか。