2025年10月13日月曜日

10月13日秦野市 白笹稲荷神社の骨董市

2025年10月13日月曜日17:20 曇り

今日は、秦野市にある白笹稲荷神社の骨董市に出かけた。 

白笹稲荷神社は、創建の年代について詳らかでありませんが、この地先住の古代水田農耕民族は、その水田耕作に不可欠の水源に、また人間の生存の礎となる衣食住の源としての「水源(みなもと)」に、清らかに神奈備を覚出しました。 「宇迦之御霊」と仰ぐ稲魂・穀霊を祀り、「保食神」、「生産の神」として信仰し、現・白笹稲荷神社の前身としての白篠稲荷の小祠を祭祀してきました。

 秦野は古代大和豪族・秦氏にゆかりの地であるといい、『風土記』によれば、稲荷信仰を広めたのも秦氏で、秦公(はたのきみ)が山城国に「伊奈利(伊奈里)」を」祭祀したことに始まるといわれています。

 天保12年(1841)に成立した『新編相模風土記』には、「稲荷社 白笹稲荷と号す。祭神蒼稲魂命。例祭二月初午の日。及六月二十八日なり。拝殿あり。老松 園一丈。一株を神木となす。末社 明王権現 子安明神」と記されています。

 江戸時代初頭の頃の奉納物が残存しており、すでに民衆の信仰の篤かったことがうかがわれ、江戸時代中期には正一位の神璽を再祀し、屋敷神として早くも独立し、神社独自の定例の社頭訓話などのあったことも知られています。時代が下っては献詠歌などが定期的におこなわれ、文芸活動なども活発だったことがしのばれ、崇敬者の信仰により支えられて現代に及んでいます。

 神社到着

会場は駐車場
 

白笹稲荷神社では、参拝者が油揚げを奉納する習慣があり、これは稲荷大神の使いである キツネへのお供え物です。社に油揚げを納める専用の場所が設けられており、参拝者は油揚げを捧げています。この習慣は、稲荷神社の一般的な作法であり、白笹稲荷神社もその一つです。

ぶらされているのが油揚げ。

本殿
ゲットした陶器は明治時代とか
龍の模様

秦野駅から1.5キロ程度の徒歩15分。散歩気分でのんびりと歩いた。曇りがちな天気で心地よい散策であった。 

2025年10月6日月曜日

10月5日 小田原骨董市へ

 2025年10月6日月曜日10:30 晴れ

4日から今日まで、小田原で骨董市があるというので妻と出かける。 

結構な人が集まってきている。
妻がカナダ人がフォークなどを売っていたので立ち寄る。 
1927年製銀フォーク購入
1913年製銀スプーン購入。フォークと合わせ購入で更にお得に!
東京農業大学とJA 戸でペピーノグミを販売していたので、購入。
帰りにランチ。究極のそばということでそばを食べる。3層の意味不明!


天ぷらそば

とろろそば
そばも天ぷらも美味しかった。ビルの4階にあるが結構並んでいた。

また次の骨董市にも行こうかと思っている。
 

10月2日から4日 佐久へ

 2025年10月6日月曜日10:00 晴れ

長野県佐久市に住む次女一家が今年も稲刈りをするというので、今まで経験のない作業をしに佐久へ行くことに。楽しみだ。ペットのトト君が 高齢でボケが出てきたのため、妻は留守番、私一人で出かけた。初めて新幹線で行くことに。

 新幹線切符を事前にEチケットで購入。これも手続きがうまくいったかドキドキだ。

9:43 開成駅快速急行で新宿へ。  11:03 新宿駅着。 座りっぱなしで腰が!

11:15 埼京線快速で大宮へ。 

    しかし、新宿駅はカオスだ!!!看板を見ながらうろうろ。まずはトイレを探し4番線を探す。

11:50 大宮着。Eチケットのミスがあると大変だと思い早めに大宮駅に着。しかし、手続くは問題なく済んでいたので何の問題もなく改札を通過。

12:29 大宮発あさま611号の自由席。早めにプラットフォームに行って並ぶ。大正解だ!  東京行の新幹線車両が来た。

あさま611号が来た。長野新幹線は25年振りか。以前上田まで行っことがあった。
軽井沢を過ぎたところ。
浅間山を撮ったが?
雲の中だ
13:29 佐久平着
14:18発の小海線の時間まで時間をつぶすが行くところはあまりない。
仕方なく小海線佐久平の乗り場へ向かう
駅まで遠い!
パスもの機器がない。慌てて戻り切符を購入。焦った!
駅のホームからの上田方面の景色
もうすぐ列車が来ると案内が
2両のかわいい電車だ!
一番目に立ち、前方を見る。
14:25 滑津駅着。当然無人駅。切符を出し忘れる。
小渕沢へ向かう電車
14:37 やっとこさ次女宅に到着。4時間40分の小旅行だ。
自宅の横にある田んぼが今回の目的。明日から稲刈りだ!コンバインを使わずに手作業で稲刈り。当然田植えも手作業。草取りはしたがその他は何もしてないとか。
周辺の田んぼは既に相当稲刈りが終わっている。
10月3日早朝 蓼科山方面を見ると朝もやが。よく見ると動いているのが分る。
次女に教えられて稲刈りスタート


意外と楽しい!来年も来るぞ!
4人で2時間作業したが、意外と進まない。 

翌日は雨。稲が水分が付いていて重いので作業中止。4日も天気が良くないというので4日に開成に帰宅。帰りも同じコースで帰る。

来年は田植えからやると心に誓う!



 

2025年9月26日金曜日

9月25日南足柄市観光ボランンティアの会主催ウォーク 足柄平野横断ウォーク1 国府津~小田原

 2025年9月26日金曜日10:00 晴れ

昨日は、南足柄市観光ボランティアと歩く企画に参加。足柄平野横断ウォーク1 国府津~小田原。当初計画は国府津駅から小田原に向かって歩く約7キロであったが、実際に幹事が歩いてみたら14時過ぎに小田原駅に着くので、天気(快晴)も考慮し途中までバスで移動することに。結果大正解で予定通り小田原駅に12時ついた。   

 JR国府津駅h初めて降りたので駅前を散策。




9:38 9:20頃の小田原駅行バスに乗り酒匂中前で下車。日蓮宗の法船寺へ。  

 佐渡流罪を赦免されました日蓮大聖人は時の執権、北条時頼に三度目の『立正安国論』を諫暁致しました。
然しながら三度目の諫暁も聞き入れられる事が無かったので『三度諫めても用いずば山林に交じるべし』の故事に従い、
ご赦免後一ヶ月半の文永十一年五月十二日、鎌倉をはなれ身延山に向かい旅立たれ、この酒匂まで来られました。
夕刻小田原宿の手前酒匂川の岸までたどり着きましたが、前夜来の大雨で酒匂川は増水の為、渡る事が出来ず、日も暮れ宿も無く困難なされております時に、
地蔵堂の堂主飯山入道夫妻庵室の庭にありました一本の老松が龍の如く光り輝き、
不思議に思い宗祖ご一行は庵室の庭先へと導かれました。
上品な老翁が御手引きして、『ここに皆様ご一泊してください』と案内されるままに地蔵堂にお入りになりますと、
お地蔵様に念仏ばかり唱えているご夫婦のみで老翁はおりません。
飯山入道夫妻この話を聞いて、
『お地蔵様がその姿を一人の老翁に姿を変じて、御手引き申し上げたのでございましょう』と
恭しく大聖人ご一行を心からご接待申し上げました。
然も大聖人の化導を受けて念仏信仰を法華経信仰へと改心したのであります。
翌十三日竹ノ下に向かう大聖人ご一行を、船を出して酒匂川を渡された法労に対して
飯山入道夫妻に『済度法船居士』『蓮慶妙船大姉』の法號を授与せられました。
後に日蓮大聖人のご尊像を彫り刻む名手といわれております中老僧日法聖人の手によって、
龍燈の奇瑞を現ぜし松の木の一部を持って祖師ご尊像を刻み、
師僧六老僧大國阿闍梨日朗聖人に乞いて開眼入魂し當山に奉安してあります。

 


1994年立教開宗750年の記念事業として小ぶりな五重塔を完工。総高6.8m総檜本瓦葺きの本格的建築。総工費7500万円、小田原市で唯一の五重塔。心柱一本で耐震性を誇る古来の方法で作られている。因みに東京スカイツリーもこの基本概念で作られているとか。日本建築の素晴らしさか!


境内にある廟


10:31新田義貞の首塚  家臣の宇都宮泰藤(小田原城主大久保氏の先祖とされる)が京都でさらされていた首を奪い、本国(群馬県)へ届けようとうるが小田原で重病に罹り、首を瓶に収め酒匂川の辺りに埋めたと伝えられている。尚、その伝書はほかにもあるとか。


11:07北条稲荷神社      

 北条三代氏康公が、夏の夕涼みをしていると、狐の鳴き声を聞いた。そこで、氏康公は、「夏はきつ ねになく蝉のから衣 おのれおのれが身の上にきよ」と即興の歌を詠んだ。(夏はきつねが鳴く時期ではなく、蝉の鳴く季節であるという意味で、季節外れの狐を茶化した歌という)
その翌日、昨晩狐が鳴いていた場所で、一匹の老狐が死んでいた。
その後まもなく、氏康公の家臣に狐の霊が憑き、「氏康公の歌によって命を落とした。この恨みは深い。この後必ず身辺に災いが起こるだろう」と叫んだ。そして、その翌年に氏康公が亡くなったため、これは老狐の祟りと恐れ、四代氏政公が、狐の霊を鎮めるため、場内に北條稲荷の社を建て供養したというのが、この北條稲荷の起源だと言い伝えられています。

 いわゆるお稲荷さんとは全くの別物。



 隣に蛙(かわず)石がある。
今から四百年以前北條稲荷が当地に建立せられて以来蛙石は稲荷末社の一として蛙石明神と崇められ永い由緒をもった小田原の名蹟である。その蛙石と言う名称は形状の蛙に似たところよりいつしか唱えられるに至ったものであろう。もと小田原城内の庭上にあったものを北條稲荷勧請の際ともに城中よりここにうつされたと伝えられているが明治三十五年の大津波にも大正十三年の大地震にも少しの移動もなかったので然らば地下岩盤の露出の先端ではないかという。
都路往来の文中に「蛙鳴くなる小田原の里」とあるのはこの蛙石が小田原に異変があるときには必ず鳴声を発するためだと伝えられ特に北條時代小田原落城の際は夜なく盛んに鳴いたというのは名高い伝説である。
 



11:20 蓮上院の土塁(総構え)

豊臣秀吉による小田原攻めに対して北条氏が築いた総構の一部です。小田原城総構の中でも低地部にある遺跡として、貴重なものです。土塁の外側には渋取川を配し、堀としていました。



11:45 北条氏輝と氏康の墓 小田原駅の南側で繁華街のすぐそば。いつも近くを通ていたが初めて知った。驚ぎだ!





天気は快晴、楽しいウォーキングではあったがちょっと暑かった。

参加者誰も熱射病にならなくてよかった。幹事さんご苦労様でした。