2024年10月12日土曜日16:11 晴れ
昨日は、久しぶりの秦野市観光ボランティアと歩こうの企画に参加。明治39年から昭和12年まで走っていた軽便鉄道(秦野~二宮)の跡を歩く企画だ。
軽便鉄道とは、
建設費・維持費の抑制のため、低規格での建設、軽量なレールを使用、地形的制約の克服に急曲線・急勾配が用いられ、軌間も狭軌が採用されることが多い。このため、運行時は最高速度が低く輸送力も小さく、軌間が違う場合は積み替え・乗り換えの不便が生じた。産業の未成熟で限定的な輸送力しか必要としない地域に建設される事例が多い。
日本における軽便鉄道は、法規的には「軽便鉄道法」に基づいて建設された鉄道を指すが、一般的には国鉄線や軌道法に基づいた軌道線をふくめて、軌間1067mm(3フィート6インチ)未満の営業鉄軌道を軽便鉄道とする[1]。広義には軌間1067mm未満の森林鉄道・殖民軌道・鉱山鉄道など、鉄道法規の規定によらない低規格の鉄道も含まれる。
軌間は、日本では762mm(2フィート6インチ)の事例が多いが、この他に600mm[2]、あるいは610mm(2フィート)、九州北部で1930年代まで盛んに使われた914mm(3フィート)の例があり、それ以外の軌間の採用例も僅少ながら存在する。
また、軽便鉄道法には軌間の規定がなかったため、同法によって建設された路線には1067mmや1435mm(4フィート8 1/2インチ)の路線も存在した[3]。(例:新宮軽便鉄道(1435mm)、国鉄の軽便線(1067mm)など)
輸送の実態として、明治期に開業した可部線の例では、立てば頭がつかえるようなマッチ箱式の小型客車を使用、乗客が多ければ起動できずに皆で後押しをして動かした。また、乗客が列車の進行中に降りて用便を済ませても駆け足で追いつくといった話も伝わるほど[4]、輸送機関としては貧弱なものであった。
秦野~二宮間を走っていた軽便鉄道
明治39年(1906)湘南馬車鉄道株式会社が秦野駅(現在の本町三丁目)から、吾妻村(現在の二宮町二宮)間の道路9.6キロメートルに、幅2尺5寸(76.2センチメートル)の軌道を敷設した馬車鉄道の運行が始まり。
この鉄道は、明治35年(1902)東海道線二宮駅の開設に伴い、吾妻村の有志が秦野町や南秦野村、井ノ口村の有力者と協力してできました。
馬車鉄道は1頭の馬が小さな貨車を引くもので、 明治43年(1910)6月の時刻表から、秦野~二宮間を片道65分~75分かけ1日11往復し乗車賃は片道16銭、往復30銭だったことがわかります。
大正2年(1913)には、動力が馬から無煙炭燃料汽動車(蒸気機関)に代わり、社名も湘南軽便鉄道株式会社となりましたが、大正7年(1918)に湘南軌道株式会社へ軌道特許権が譲渡されています。
当時の沿線は、わら葺屋根の民家がほとんどで、火の粉の飛散を防ぐため、独自に開発したラッキョウ型煙突を付けた機関車が、客車や貨車を牽引していました。
客車には秦野地方専売局の職員や大山への参拝者が、貨車には葉たばこ、たばこ製品、木材、綿糸など、この地域の産品が多く積まれ、産業の発展に大きな役割を果たしました。しかし、自動車の普及(バス路線は所要時間半分で往復した)や小田急線の開通により、利用者が減少し、昭和12年(1937)に姿を消しました。
今日のスケジュール
8:34秦野駅を出発。大山がくっきりと見える
9:16 天台宗龍門寺。1591年〈天正19〉に徳川家康から寺領5石(こく)の朱印を受けている。軽便鉄道は寺の東側を通っていた。
9:22 梅原家住宅 軽便鉄道設立に際し土地を寄付したりと大いに貢献した地元の富豪
龍門寺参道 正面が龍門寺
9:37 天台宗命徳寺 この寺の川側のあたりを軽便鉄道は通っていた。
江戸時代初期に建築された茅葺き屋根の古い山門のあるお寺。
この門は薬医門といい、市の重要文化財。この門は、横から見ると、垂木が中心より前方にあるため、屋根全体が前の方に片寄っています。
9:51 養泉院 この前を軽便鉄道が通っていた。
10:05 嶽神社 この前を軽便鉄道が通っていた
11:02 ここは中井町井ノ口にある大山道標で、この分岐の右側を軽便鉄道が通ていた。
11:06 蓑笠神社
この蓑笠神社の周辺を井ノ口と呼ぶが、蓑笠神社は中井町井ノ口全体の鎮守と仰がれている。
御祭神は素戔鳴命、蓑笠神社と素戔嗚尊には、日本神話に深くかかわる興味深い伝説が残されている。
そのむかし、天照大神の怒りに触れて、天上界から「根の国」へと追放された素戔嗚尊が天下ったところが、現在の大山であったと言われている。「雨降山」の別名を持っている大山は、来る日も来る日も雨が降っていた。蓑と笠を身に着けた素戔嗚尊は山を下って南へ南へと歩き続けて、当時「井ノ神さま」と呼ばれていた、この社に一夜の宿を求めたのである。次の朝にはすっかり雨も上がり、素晴らしい天気になると素戔嗚尊はうっかりと蓑と笠を忘れて置いて行ってしまった。その蓑と笠はたいへんなご利益があるとされ、それ以降「井ノ神さま」は「蓑笠神社」と名を改め、祭神も素戔嗚尊を祀るようになったのだという。
素戔嗚尊は、その後平塚市下吉沢の八剱神社を経て、大磯町の高麗神社へと向かわれたという伝説が残されているのである。
11:21 ランチは厳島湿生公園で
池の真ん中にある島に厳島神社がある。
12:44 米倉寺(べいそうじ)
井寶山(せいほうざん)米倉寺と号し、曹洞宗に属する。本尊は釈迦牟尼仏。
歴史
天文元年(1532年)の開創で、開山は天宥宗高大和尚(秦野市山下の米倉一族の菩提寺である藏林寺の二世)。
もともとこの地には用国院という寺院があり、伊豆の最乗寺直末である普門院を本寺と仰ぎ、宮の鳳安寺を末寺に従えていた。
その後、甲斐武田家の家臣であった米倉丹後守種継公が井ノ口に移住してきた際に、両親追善と自己安住のため、甲州恵林寺と同宗であったこともあり 、
自身の菩提所と定め、用国院を再建して米倉寺と改名した。
その後、蔵林寺の末寺となり、鴨沢の大泉寺を末寺とした。
米倉寺(べいそうじ)には本堂の彫刻「阿吽の竜」の伝説がある。この竜の「水を飲みに出る」という言い伝えは中井の昔ばなしにもなっているが、制作年など詳細は不明のままだという。本堂に佇むのは高さおよそ2m50cmほどの、本尊に向かって右側の口を開けた「阿の竜」と左側の口を閉じた「吽の竜」。
江戸時代前期に飛騨(岐阜県)で活躍し、竜の彫刻の名工として名をはせたと伝わる甚五郎の作品だ。甚五郎が江戸に向かう途中で試作品として、米倉寺で竜を彫ったとされている。「誰かに頼まれてこの形にしたのか、『左巻き、右巻きどちらも彫ることができる』という技術を披露したかったのか、理由は分かっていない」と同寺住職。
甚五郎は阿吽の竜を完成させた後に、利き腕の右腕を失ったが左腕一本で寛永寺(東京都・上野)に竜を彫り上げたとされている。しかし「甚五郎」という人物が実在したかは定かではなく、伝承にとどまっている。
曼荼羅の掛け軸
13:18 長屋門
13:30 誠成館跡
13:31 茅葺屋根の住宅
13:50 二宮駅に向かう途中にある浄源寺
14:37二宮駅発の東海道線に乗り国府津駅で御殿場線に取り換える。
上大井駅へ向かう途中の車内からみた進行方向前の景色
上大井駅手前
駅構内にあった
15:06 上大井駅付近の古い家
上大井駅から40分かけて開成の自宅に戻る。快晴の一日で、約19千歩のウォーキング。
今回も、たいへん勉強になりました。
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