2023年10月28日土曜日15:40 晴れ
23日に夏以降初めてのトレッキングに行ってきましたが、従来の方法では何故かブログが立ち上がらず、Google Chromeに変更して漸く立ち上げることができました。
23日朝天気も良いの矢倉岳(標高870m)に足慣らしのため出かけました。
2023年10月28日土曜日15:40 晴れ
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23日朝天気も良いの矢倉岳(標高870m)に足慣らしのため出かけました。
2023年10月13日金曜日11:30 快晴
昨日は秦野市観光ボランティア協会主催のウォークに参加。コースは小田急線秦野駅を出発し軽便鉄道の始発駅へ向かう。そこからJR東日本二宮駅までの約10Kを歩く割と平坦な道。天気は快晴、ウォーキング日和だ。歩数は19千歩だった。
秦野~二宮間を走っていた軽便鉄道(SL)歴史の旅へGO!!
軽便鉄道は、明治39年(1906)湘南馬車鉄道株式会社が秦野駅(現在の本町三丁目)から、吾妻村(現在の二宮町二宮)間の道路9.6キロメートルに、幅2尺5寸(76.2センチメートル)の軌道を敷設した馬車鉄道の運行が始まり です。
この鉄道は、明治35年(1902)東海道線二宮駅の開設に伴い、吾妻村の有志が秦野町や南秦野村、井ノ口村の有力者と協力してできました。
馬車鉄道は1頭の馬が小さな貨車を引くもので、 明治43年(1910)6月の時刻表から、秦野~二宮間を片道65分~75分かけ1日11往復し乗車賃は片道16銭、往復30銭だったことがわかります。
大正2年(1913)には、動力が馬から無煙炭燃料汽動車(蒸気機関)に代わり、社名も湘南軽便鉄道株式会社となりましたが、大正7年(1918)に湘南軌道株式会社へ軌道特許権が譲渡されています。
当時の沿線は、わら葺屋根の民家がほとんどで、火の粉の飛散を防ぐため、独自に開発したラッキョウ型煙突を付けた機関車が、客車や貨車を牽引していました。
客車には秦野地方専売局の職員や大山への参拝者が、貨車には葉たばこ、たばこ製品、木材、綿糸など、この地域の産品が多く積まれ、産業の発展に大きな役割を果たしました。
しかし、自動車の普及や小田急線の開通により、利用者が減少し、昭和12年(1937)に姿を消しました。
『軽便鉄道 歴史継承事業報告書』より
7:50 開成駅からみた富士山 初冠雪の雪はほとんど消えている。
今日のコース表
8:38 秦野駅を出発。イオン秦野店の前にあるNTTのビルに到着。ここが軽便鉄道秦野駅の出発駅だった。(写真は2年前のもの)
9:04 旧軽便鉄道秦野駅にある碑
江戸時代初期に建築された茅葺き屋根の古い山門のあるお寺。
山門は薬医門という形式で、横から見ると、垂木が中心より前方にあるため、屋根全体が前の方に片寄っています。市の重文です。
秦野に残る古い建築物の一つで、平成15年に秦野市の重要文化財に指定されました。命徳寺本堂は、1651年(慶安4年)頃に再建されたという記録はありますが、当初のものは内陣まわりに残っているだけということです。
元大竹村は、鶴疇山(つるとしやま)八幡宮の氏子でしたが、正保年間尾尻村より分村、桃山時代より尊崇していた御霊社を嶽神社と改名し、独立氏子となりました。
蓑笠神社は秦野市から二宮町に抜ける県道711号線の旧道沿いにある神社で、蓑笠という変わった名称は、祭神の素戔鳴命が旅の途中、この地に蓑笠を置いていったからといわれているそうです。
南側より長い参道が続いており、両側にはケヤキの大木が立ち並んでいます。参道入り口に立つケヤキと、参道最奥の本樹が特に大きそうです。参道奥の拝殿前に立つケヤキが「蓑笠神社のケヤキ」と呼ばれるもので、上部から根元に通じる大きな空洞がありますが、古い時代の落雷の影響だと伝えられています。
そのために樹高も樹冠も小さめなのですが、根元のすぐ脇に石垣が迫っており、これが樹勢に多分に影響しているようです。
参道のケヤキは概して古そうですが、拝殿周囲にあるケヤキは直幹のケヤキで姿が良く、まだまだ若々しい姿をしている。
200年ほど前に補植をしたのでしょうか、100年後くらいには今見ている御神木のケヤキに変わり、世代交代と成りそうな勢いです。
かながわの名木100選の選ばれていますが、どちらかというと地味な存在のケヤキ、そんな印象が強いようです。
当山は、井寶山 米倉寺と号し、曹洞宗に属する寺院です。
天文元(1532)年の開創で、開山は天宥宗高大和尚(秦野市堀山下の米倉一族の菩提寺である蔵林寺の二世)。もともとこの地には用国院という寺院があり、伊豆の普門院を本寺と仰ぎ、宮の鳳安寺を末寺に従えておりました。
その後、甲斐武田家の家臣であった米倉丹後守種継公が井ノ口に移住して来た際、両親追善と自己安住のため、用国院を再建して米倉寺と改名しました。
さらにその後、蔵林寺の末寺となり鴨沢大泉寺を末寺としています。
江戸時代末期には寺子屋を兼ね、やがて、井ノ口小学校の前身である誠成館に発展した寺であり、学校が独立した後には井ノ口村役場となり、昭和に入ってからは託児所、疎開児童の受け入れ等を行いました。
右から5つ目が米倉一族の清継(家康の関東入府後200石を与えられた)の宝塔(墓)らしい。
宝塔は、広義にはすべての仏塔に対する美称であるが、狭義には円筒形の塔身に方形の屋根を架け、頂上に相輪(そうりん)を立てた形式の一重塔をいう。 平安初期に密教とともに伝来したが、宝塔の形は南天鉄塔(南天=南天竺(てんじく)で南インドのこと)に由来するといわれる。
おく四つが宝篋印塔(ほうきょういんとう)宝篋印塔は、供養塔や墓碑塔などに使われる仏塔の一種で、中国からの伝来後日本で独自の発展をしてきた塔です。五輪塔とともに平安時代以降多く造られ、石造の遺品が多く残されています。
一般的に上から「相輪(そうりん)」「笠」「塔身(とうしん)」「基礎」「基壇」で構成され、笠の四隅には「隅飾(すみかざり)」と呼ばれる突起があるのが特徴です。