2022年4月20日水曜日
昨日19日火曜日は今年度2回目の秦野観光ボランティア協会主催のウォーキング。
小田急線渋沢駅に集合し県立秦野戸川公園まで歩き、別の道を渋沢駅まで戻る約5時間の
ウォーキング。天気も曇り時々晴れとウォーク日和。
今日のコース 旧堀四ヶ村は概ね渋沢駅から大蔵にある県立戸川公園に至る一帯を指す。
渋沢駅
8:38 駅をスタート
9:07 御嶽神社
[御嶽神社由緒]
奈良時代、御嶽信仰は吉野の金峰山を霊場とする山岳信仰に始まり、「金剛蔵王権現」を祭神とする修験道は室町時代に全国に広まった。
江戸時代になると修験者の移動が禁じられ各地に定住し加持祈祷や安産祈願等をするようになった。
従って当神社も室町時代頃に「蔵王権現」を祭神とする「蔵王宮」といわれる神社が創建されたものと思われる。
堀四ヶ村(堀山下村、堀川村、堀斉藤村、堀沼城村)の鎮守として上社が堀の郷八幡宮(堀山下の八幡神社)で下社が蔵王宮として信仰され、毎年祭典には堀の郷の氏子総代が参拝する慣習が現在でも残されている。
明治維新の時に神仏分離令が出され、修験道が廃止され神道の国教化が進み廃仏毀釈運動が高まり、明治六年、「日本武尊」を祭神とする御嶽神社と呼称されるようになり、村社に格付けされた。
さらに、明治末年には大森稲荷神社の祭神である宇迦之御魂命を県庁の指示により合祀された。
末社の聖徳神社と天神社
*摂社と末社の違い。
- 摂社(せっしゃ):主祭神に関連のある神様をお祀りする社
- 末社(まっしゃ):主祭神や摂社以外の神様をお祀りする社
摂社(せっしゃ)にお祀りしている主祭神に関連のある神様とは、例えば、本殿(本社)にお祀りされている御祭神の荒魂(あらみたま)や、父母神・后神・御子神などです。 また、御祭神と関係のある神様や、神社がある土地の地主神(じぬしがみ)などを、特別な由緒ある摂社としてお祀りすることもあります。 一方で、それ以外の神様をお祀りする社が末社(まっしゃ)です。ただし、摂社と末社には、明確な規定はありません。
末社の聖徳神社(聖徳太子を祀る神社)
その隣に末社の天神社
拝殿と注連縄(しめなわ)
この神社に屋根から突き出た向拝(仏堂や社殿の屋根の中央が前方に張り出した部分
のこと。仏堂や社殿入口の階段上に設けられる場合が多いことから「階隠」(はしかくし)
とも。)は、屋根が全体に出ているので向拝はないといえる。
因みに、拝殿の前を向殿(拝殿に向かう意味とか)というと説明があった。
注連縄にも、前垂注連、大根注連、牛蒡注連の種類がある。
9:32 13番波多川地蔵堂
秦野市内には24の地蔵堂があるが、創建当時のままなのはここだけとか。
*掬ぶは
“水を両手ですくう。掬きくする”の意。「水を掬ぶ」
地蔵の体内から出てきた体内仏の写真
地蔵堂内の模様
地蔵
地蔵堂の前にある三界萬霊有無縁塔
*三界萬霊とは三つの世界、すべての精霊に対して供養することの大切さを示すものです。
三界とは、無色界むしきかい色界しきかい欲界よくかいの三つをさします。界の原語には層という意味もあるので、界は階層と考えてもよいと思います。
細かく分けると、無色界は4階層、色界は16~18階層、欲界は20~36階層(処)、になります。
9:48 天津(あまつ)神社
創建年代不詳。史書の記述にも見えない。棟札に正徳5年、宝永元年之記録あり。
本殿が本来は南向きが多いが、この天津神社は西向き。神仏混傲時代の仏教的な性格を
現しているとの説明。
江戸時代の大工の作でかなり精巧との説明あり
10:00桂林寺 市内には浄土宗の寺は2寺のみ。
- 古くは蓮乗院と称し、堀山下字蓮乗院にあった小さな寺が、戦国時代の末に現在地に移った際に真言宗から浄土宗に変わったと言います。
- 境内の椎(スダジイ)は、市内随一の群生地で、大きなものは高さ25m余、根周り7.8mのものもあります。樹齢は約400年と言われ、桂林寺の歩みとともに年月を重ねてきました。
文安3(1446)年頃に堀山下大倉に「文安3(1446)年頃に堀山下大倉に「
及ぶ。椎は「スダジイ」といわれ秦野市の天然記念物に指定されている。(1603)
境内には市内随一の椎の森がある
椎の木
10:20 須賀神社
*創立年月日は不祥なれど、鎌倉時代より当時羽根の氏神として尊崇され、明治五年、当時にあった神社を合祀されたが、祭神は同名であり現在も祭神は一柱である。
明治五年、羽根社と称していたが同年須賀神社と改名され、現在も羽根の氏神として尊崇されている。
鳥居は原始的で素朴な神明鳥居。笠木(かさぎ)、貫(ぬき。笠木の下にある横木)、2本の柱の4本で作られ、縦柱、横柱とも直線的であるのが特色。
10:30 途中にあった馬頭観音かと思ったらなんと「牛頭観音」だとか。馬ではなく
牛とは!
いちご狩ができる。ガイドさんがイチゴを買ってくれてその場で皆で食べた。旨かった。
ガイドさんに感謝。
10:43 4月16日に一部完成した新東名道路。
10:45 曹洞宗蔵林寺
*室町時代の享徳年間(1452~55年)の頃に堀山下の寺屋敷に開かれ、文明年間
(1469~87年)に現在地へ移りました。
1649年(慶安2年)頃に寺領15石の朱印を徳川家光から受けました。江戸時代になって
米倉丹後守の保護を受け、菩提寺となりました。
寺には、大名となった米倉昌尹(まさただ)の木像や米倉氏の系図などが保存されて
います。
※米倉丹後守(よねくらたんごのかみ)
米倉丹後守は名を昌尹(まさただ)といい、父昌純は徳川四代将軍家綱、五大将軍綱吉
に仕え、江戸城大番組頭として重きをなしました。
昌尹は元禄3年、丹後守(今の京都府の北部)に任じられ初めて大名に取り立てられ
ました。 とくに将軍綱吉には信任厚く、国中の犬の取り締りを命じられ一世を風靡
しました。領地だった堀山下に先祖供養のため蔵林寺を建立、ここに昌尹のほか、
米倉一族の男女合わせて50余名の霊が眠っています。
*柳沢家と米倉家はもともと甲斐の出身で隣同士の部落であったとか。柳沢吉保が出世
すると米倉家を推薦した。綱吉の生類憐れの令の実施にあたり柳沢吉保の推薦で米倉
昌純を抜擢した。
本堂の右側に岩船地蔵尊
米倉家の大名籠
入り口左にびんずるさん。
米倉一族の墓
一族以外の家臣の墓
11:17 大蔵にある県立戸川公園。ここでランチ。
八重桜
チューリップ。一週間遅かった。残念。
藤。これからだそうだ。
公園のシンボル、風の橋。
12:19 午後の部スタートし、堀の郷正八幡宮へ。
堀之郷正八幡宮御祭神 誉田別尊 ( ほんだわけのみこと ) (応神天皇)
息長足姫命 ( おきなたらしひめのみこと ) (神功皇后)
高良玉多礼命 ( こうらたまだれのみめい ) (竹内宿弥)
由 緒
天安二年(西暦858年)九州宇佐八幡宮から分霊を勧請してこの地に祀り当初は金光山正八
幡宮と号し武門では立身出世・氏族繁栄・行路安全・災難消除の神様として、他に民間では
安産・子育ての神様として信仰された。何れも御祭神の歴史的事蹟によるものである。
天正年間には小田原北條氏が堀四ヶ村(堀山下村・堀西村・堀川村・沼代村)の神官として
祭禮奉串の儀を行ない、その後徳川氏の時代には社領五石の朱印状を受けている。また堀山
下村の領主米倉氏からは守護神として手厚い保護を受けた。明治維新後は郷社に列せられ堀
四ヶ村の鎮守として崇敬護持とされ今日に至っている。
前に説明した向拝(
社殿の屋根の中央が前方に張り出した部分のこと)があります。また、向拝を支える柱を支える向拝虹梁(こうりょう。柱に直接接続される構造部材で、梁といっても柱の頭部をつなぐ役目で、端部や側面の独特な彫刻により化粧材でもある。)も前面にも見えます。
見えないが、向拝を支える柱と拝殿の支柱を支える海老状の虹梁を「海老虹梁」といい、いろんな化粧を施されています。
13:19 八坂神社
当社の創立年月日は不祥であるが、四百年前より当地にあり境内の欅の大木は約一千年を数える古木である。当社の社殿は昭和四十二年、御嶽神社新築の際、古い社を移築したもので、昭和六十年、屋根は銅版葺きとした。
御祭神は、須佐之男之命及び大国主大神である。
前から、拝殿、幣殿(本殿と拝殿をつなぐ建物)、本殿です。
ガイドさんが作った資料。次の機会に是非ほしいと要望した。
13:39 堀川地蔵堂 この地の名家の所有。
鵠沼地区のことに江戸時代以前から集落が形成されていた「本村」と呼ばれる地区の路傍には、道祖神、庚申塔、馬頭観世音、地蔵尊、弘法大師像、各種供養塔などの石造物が見られる。それらのうち、地蔵尊像は弘法大師像と小堂内に併置されることがある。
この堀川地蔵堂は淺場家邸内にあり鵠沼で唯一の坐像丸彫である。
町中の道路に面した小さな神社。. 御祭神は金山彦尊、木花開那姫命で、縁結び、安産、家内安全に御神徳があるそうです。に面した小さな神社です。御祭神は金山彦尊、木花開那姫命で、縁結び、安産、家内安全に御神徳があるそうです。
町中の道路に面した小さな神社です。御祭神は金山彦尊、木花開那姫命で、縁結び、安産、家内安全に御神徳があるそうです。町中の道路に面した小さな神社です。御祭神は金山彦尊、木花開那姫命で、縁結び、安産、家内安全に御神徳があるそうです。
14:03 渋沢駅に無事と到着。
今回のガイドさんは大変物知りでいろいろなことを説明して頂いた。感謝。
しかし、あまりにも多くを説明して頂いたので、右から左へ抜けてしまったのが悲しい!