2026年1月29日木曜日晴れのち曇り 16:20
今日は、秦野市観光ボランティアと歩く企画に参加。午前中は快晴の予報。
寒いが風がないので苦にならない。
今日のスケジュール表 9:05発のバスで秦野駅を出発。
9:37 中庭のバス停を降りて、実朝公御首塚へもともとは木製の五輪塔であったが、今は鎌倉の国宝館にある。源実朝公は、甥の公暁(くぎょう)によって殺され、その後、御首(みしるし)は、公暁を討ち取った三浦氏の家来、武常晴(つねはる)らによってこの秦野の地に持ちこまれました。そして当時この地を治める波多野忠綱に供養を願い出て、手厚く葬られたと伝えられています。
当初の五輪塔は木造でしたが、1250年(建長2年)に波多野忠綱(ただつな)が金剛寺を再興した時、石造に代えたと言われています。木造の五輪塔は、現在、鎌倉市の国宝館に展示されています。
御首塚の近くには、歌人としても有名だった実朝の歌碑があります。「金塊(きんかい)和歌集」の中の一首で、
「物いはぬ四方(よも)のけだものすらだにも あはれなるかなや親の子を思ふ」
とあり、実朝の研究家でもある歌人、佐佐木信綱(のぶつな)の揮毫(きごう)です。この歌碑は秦野郷土文化会の活動により、1960年(昭和35年)に秦野市が建立しました。
金剛寺は、もともと小寺でしたが、鎌倉時代に武常晴(つねはる)が3代将軍源実朝の御首(みしるし)を当寺に持参して埋葬したことに始まるといわれています。
退耕行勇(たいこうぎょうゆう)を招いて木造の五輪等を建て実朝の供養をしました。その後、実朝の法号金剛寺殿にちなみ、金剛寺と改めました。
1250年(建長2年)に、波多野忠綱(ただつな)が実朝の33回忌のため再興しました。本堂には、源実朝像が安置されています。
「実朝念持仏」との由緒が伝承される木造阿弥陀三尊立像で、両脇侍の観音・勢至菩薩立像は、鎌倉幕府三代将軍源実朝の没後間もない頃に御家人波多野氏らを中心に供養のために造立されたものと推定されます。
中尊の阿弥陀如来立像は、鎌倉時代中期の阿弥陀如来立像の形式に倣った室町時代後期から江戸時代初頭の作とみられ、ある時点で補われたものと推定されますが、歴史的・美術的意義に鑑みて、阿弥陀三尊立像として文化財指定にふさわしいとされることから指定されました。10:33 自治会館にあった地図11:03 坂本道
寺山には大山道・富士道(ふじみち)と古道・大山道が二本通っている。その古道・大山道を大山道坂本道(さかもとみち)という。
坂本道とは、今の大山町は江戸時代は坂本村と呼ばれていた、その坂本村に通じる道だったからである。蓑毛道は大山山頂に向かうとき、通過する地から付けられた名である。かつて蓑毛は大山参拝の信者の宿となる御師の宿が数軒あった。御師は神職であり、阿夫利神社参拝の案内をした。
11:25 御嶽神社創立年代は不詳だが、往時御嶽社、第六天社、蔵王社を鎮守としていた。当時草山の地に安政六年まで周囲十尺の老松があって、この大樹は旧矢倉沢往環に沿い、旅人は皆これを目標として通り、今は枯死して無く、一本松と称した。古伝に倭建之命東征の時大樹の下に腰を据え、大山丹沢富士を一望されたことにより御嶽社を建立されたと伝えられる。当村名主井上支一郎子孫宅古文書によれば、現境内地に七百年を越える老杉八本ありとある。この老杉は、昭和8年、台風により倒木。800年以上の古木であった。
明治6年、御嶽社、第六天社、蔵王社を合祀し上地し、御嶽神社と改称。村内小社を境内社として名古木(慶長年代までナコノキと言いその後村名をナガヌキと称している。)に鎮座。大正4年、神饌幣帛料供進村社に指定された。
境内社として「大口真神(おおくちのまがみ・おいぬ様)」がある。- 狼(大口真神)との関係: 多くの御嶽神社と同様に、この地でも狼はイノシシやシカから農作物を守る「真の神」として崇敬されています。
- 「おいぬ様」の信仰: 武蔵御嶽神社(青梅市)などに見られる「おいぬ様」信仰と同様、ここでも狼が守り神として大切にされている。
- 境内社: 御嶽神社社殿の横にある小さな祠は大口真神社であり、狼を直接お祀りしている。
残念ながら、次に向かう途中で急用ができ離脱。今回はここまで!!
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